「科学者は現実派である。幽霊はプラズマだと言うし、夢がない。オカルト族とは真逆である。きっと無神論者だろう」
皆さん、科学者のことをそのように思っていませんか? 確かに、幽霊をただ闇雲に信じたりはしないかもしれません(おそらくしません)。でも神を否定はしません。そして、森羅万象を尊んでいます。
物理学とは、ただあるがままの現実を受け止める、自然の法則を基準と数式をもって表す学問です。人の力で作り出しているわけではありません。人はただ知り、活用しているのです。しかも、知ることができる人は、人間の中では天才だけです。
自然の法則はなぜあるのでしょうか? この疑問に対し、どの教派にも属していない筆者でさえ、神の存在を思い浮かべざるを得ません。と言うのも、唯物論に掲げられる「森羅万象は物と物の作用によって説明できる」理由を、人間は説明できないからです。法則はすでに存在していて、なぜ法則があるのかなど、誰も知ることができません。例を挙げるなら、万有引力のおかげで人は地上に立っていられるわけですが、その引力を相対性理論で時空の歪みだと理由づけられても、時がある理由までは説明できないのです。説明できない物がある以上、それを神の仕業と言われたら否定はできないでしょう。
物理学者は、ただ自然=神に関心を寄せ、それを知ろうとしています。そして知るごとに自然の凄さに圧倒され、敬服し、没頭するのです。
自然への敬意なくして、物理学は語れません。
『話を聞かない男、地図が読めない女』という書物があります。男性が何かをしているときはそれ以外のことに神経がゆかず、女性が地図を読めないのはすべて脳とホルモンの違いによるもので、変えようがないこと――と語っている本です。和訳がまずいため、題名からは「男は意図的に話を聞かず、女は不可抗力で地図を読めない」とも受け取れます。片や意図的となれば話は変わってくるのですが、ここでは和訳の是非に踏み込まず、女性脳に注目しましょう。皆さんに考えていただきたいのは、「地図とは、脳の性差で左右するほど難解なものか?」の答えです。
筆者の意見から言わせていただくと、地図は難しい物ではありません。たまに、地図を回しながら訝しげな顔をしている女性を街角で見かけますが、地図は回さないほうがいいです。なぜなら、文字が読みづらくなるだけでなく、地図の情報が頭にちっとも入らなくなるからです。
地図を見るポイントは2つ。
たったこれだけです。自分が北を向いているかどうか(方角)は、方位磁針片手に野山や砂漠や大海原を進んでいるのでもない限り、重要ではありません。ただ自分はどこに立っていて、周辺の建物とはどういう位置関係にあるのか。それらを把握できればいいのです。地図を回している人は無意識にそれをしようとしているのかもしれませんが、回すことでかえってわかりづらくなる上、視覚に頼りすぎて地図情報が頭に入りません。頭に入らないと、地図を見ていても道に迷います。
「あんたは方向感覚がいいのだろうけど」と誤解される方がいらっしゃるかもしれませんので、ここで一言、筆者は方向音痴で知られているとお断りしておきます。誰かの後について歩いた道は覚えられませんし、助手席に乗って移動した道はさっぱりわかりません。自分で運転した道でさえ、数回通らなければ怪しいほどです。しかし、地図を見てからの移動は簡単で、迷うことがありません。地図情報を頭に入れたからです。
地図を読めないと思っている方は、地図を回さずに地図の上に基点を置いて、相対位置を考える練習をしてみてください。
義務教育はなぜあるのか。その意図は「知見の基盤を作る」ことにあります。
なぜいろんな科目を学ぶのか。それは「独学のきっかけを増やす」ためにあります。
なぜ勉強するのか。こんなものを学んで、何の役に立つんだろうか――勉強が“与えられる物”であるうちは、誰もが抱きがちな疑問です。それもそうでしょう。好きこのんでしているわけではない、押しつけられた知識に、反発が先立つのはしかたのないことです。ゆえに、家庭でいかに学習の習慣をつけるかが、勉強への抵抗感をゆるめる鍵となります。
わたしには、義務教育、特に小学生の間に、子供達に知って欲しいことが2つあります。1つは「作る喜び」、もう1つは「わかる喜び」です。
作る喜びとは、頭の中に描いた架空の物を実現させる楽しさです。わかる喜びとは、頭の中でパズルのピースがはまるような気持ちよさを味わうことです。それら2つの喜びを知っているか否かで、子供の想像力と基礎学力に大きな差ができるでしょう。また、人生の幅にも強く影響が与えられます。なぜかと申しますと、喜びを知ると、人は能動的にその喜びを何度も味わおうとするからです。
では、どうすればこれらの喜びを知ることができるのでしょうか。
親御さんの出番です。子の親である方は、子が日頃から抱く疑問に丁寧につきあってください。一緒に考え、一緒に答えを導き出してください。面倒くさがらず、投げ捨てず、子供が理解できるように語りかけたり、調べさせたりしてください。また、本を読み聞かせ、本に興味を持たせてください。
人間は産まれたばかりの時ほど様々なものに興味を抱きます。あらゆるものを不思議に思い、あらゆることに疑問を投げかけます。しかし、その疑問や感覚を解決する手段はというと、触る、口に入れるという原始的――動物的なもの。もちろん五感で捉えることも大切なのですが、それだけでは知的好奇心は衰退します。人ならば、五感に頼るのみならず「理解」がほしい。理屈で解する、想像力のいる作業です。これは、一人でできる子供も中にはいるのですが、多くは年上の助けが必要でしょう。今は学校の教師に丸投げする親が大変多いようですが、子供にとってもっとも身近な大人は親で、もっとも信頼を寄せているのも親です。親が手伝ってください。
作る喜びとわかる喜びを知るだけで、人生の幅はぐんと広がります。