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ファンタジーを思う3

 ファンタジー小説の存在理由を、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 小説を書くことには大抵理由があります。人々にメッセージを送るためであったり、ただ楽しむためであったり。映画も絵画も意図があって作られるように、小説にも作成者の思いが何かしら載っています。

 では、多くの人がファンタジー小説を書く理由は何でしょうか。この疑問に対してわたしは、ほとんどの人は自ら作った不思議世界を公表したいがためにファンタジー小説を書いているのではないだろうか、と思うのです。なぜなら、どの作品を見ても、含んでいるものを表現するのにファンタジーでなければいけない理由など、滅多にないのですから。

 ところで、ファンタジーは何かという昔からの議題について、今なら新たな解を提示できます。夢幻、おとぎ話、ただそれだけです。難しいものではありません。直感でいいのです。

前提の善意

 わたしには、見るとつい軽蔑してしまう行為というのがあります。それは「嘘を言って得をする」という内容のもの。たとえば、知的障害を持つ子供に「字を書くな」「しゃべるな」と言い聞かせて重度の障害者認定を手に入れる親、就職する気もないのに失業等給付を受け取っている退職者、アルバイトをしていることを隠して生活保護を受けている人などです。

 人の作る法には往々にして灰色の部分(グレーゾーン)があります。曖昧な表現のためにどうとでも判断できるので、白でも黒でもない灰色の領域と呼ばれるわけです。

 この灰色を利用する人は大勢いるでしょう。倫理に欠けることはありますが、灰色は灰色です。それをしている人を悪いとは、さすがのわたしも言えません。しかし、最初に述べた「嘘を言って得をする」というのは、灰色ではありません。真っ黒です。該当する法の前提とされる善意が、備わっていないのです。もしも彼らが、使い込んだだけの年金を「書類上の事故で喪失した」と言い張る某保険庁の姿を非難したとしたら、それはあまりにも無様で醜い行いです。なにせ、同じ穴のムジナなのですから。「お互い様」と思うくらいの気構えが欲しいものです。

 人間の元は悪である。性悪説に賛同するわたしから見て、善意を前提とする法を悪用する人の存在は、いて当然だと知りながら非常に悲しく思えます。わたしはずっと白く生きていきたい。皆さんはどうですか?

それでもソフトウェアが好き!

 わたしが初めてプログラミングに興味を持ったのは、確か6、7歳のときでした。当時我が家にはMSXというコンピュータがあり、主にゲーム機として使っていましたが、父がコマンドラインでの操作やBASICでのプログラミングなどをことあるごとに教えてくれました。最初は2歳違いの兄も一緒に聞いていたのですが、兄はコンピュータそのものやプログラムに興味を持たず、父によるBASIC本の提供や情報供給は、次第にわたしにのみ向けられるようになりました。よく父と家電量販店のPCフロアに遊びに行っていたと記憶しています。

 ハードディスクのあるPCに触れたのは、中学校に入ってからでした。中学時代はプログラムへの興味を失っており、暇さえあればワープロで小説を書いていました。しかし高校入学後に転機が訪れ、HTMLを知り、WEBサイトを作り、CGIをいじるうちに、プログラミングに対する情熱が一気に甦りました。それはもう、大学の情報システム学科へ進学したいと思うほどでした(父の了承を得られなかったため、結果的に物理学を専攻しましたが)。

 ここまでプログラミングに愛情を持っているならば……皆さん、わたしの職業は何だと思いますか?

 SE? ...No

 PG? ...No

 Are you zonbi? ...Yes(嘘、Noです)

 わたしの職業は主婦です。SEやプログラマーの職歴はありません。大学院を出る年にソフトウェア会社の内定をもらいましたが、お断りして主婦を選びました。なぜでしょう。

 世の中にはいろんな職業があります。大きく分けると、第一次産業、第二次産業、中略して第六次産業。もっとも、これはクラーク氏が定義したものであって、日本には『日本標準産業分類』(統計局)というものがあります。

 わたしはどの職業も素晴らしいと思うのですが、中でも特に尊敬しているのは、第一次産業、第二次産業に属するものです。なぜなら、これらが人間の生活の基盤だから。これを書いている現代ではまだ「コンピュータを扱えるなんてすごい!」という風潮が残っていますが、ぶっちゃけて言うと、コンピュータは暮らしにおいて付加価値でしかありません。+αのαです。なくてもいいけど、あったら便利だね。その程度です。

 だからこそ。わたしはSEやプログラマーになりませんでした。生活の基盤を選びました。農業も始めました。山の管理もできるようになります。

 でも、それでも、やっぱりプログラミングは好きです。ソフトウェアが好きです。これはきっと一生好きなのでしょう。人生27年、PC歴22年。PCとともに長い間暮らしてきましたから。

 残念なのは、永住覚悟の土地で、プログラミングを好む知人がいないことです。ソフトウェアの話で盛り上がりたいです。WEBではする気が起きないんです。

 皆さん、ソフトウェアはお好きですか?

死にたがる人、止めたがらない人

 今も昔も、死にたがる人というのは結構います。つらいことで心身共に疲弊したとき、人は「もういっそ……」と考えてしまいがちです。わたしも多分に漏れず、そう思った時期がありました。ですが、首を吊ったりリストカットをしたり、練炭だの硫化水素で死のうなどとは、一度も考えたことがありません。「疲弊の極致で過労死できるならば、それでいいじゃないか。このまま休まず行こう」という思考でした。それなのに踏みとどまって自分の身に気を配るようになったのは、夫とつきあって、夫より先に死んではいけないと思うようになったからです。

 ごくたまに、死にたがる人が、わたしに救いを求めてくることがあります。どうしようもなくつらければ、つらさが自分の忍耐力を越えていれば、死にたくもなるだろう。わたしはそう解します。けれど、否、だからこそ、滅多なことでは「死ぬな」とは言えません。死にたがる人を止めたくありません。上辺だけの無責任な優しさをかけて、その人が一時的に死ぬのを踏みとどまったとして、わたしはその人の人生に責任を持てません。今後一生世話をしていくつもりがないのに、どうして無闇に「生きろ」と言えましょう。わたしが「死ぬな」と言えるとしたら、それは一生関わって支え続けることができる相手にだけです。(1度だけ、相手が切に希望するので「死ぬな」と言いましたが、自分にとってかなりの苦渋でした)

 死にたがる人から死ぬ自由を奪うことはできません。自分の命の長さを決められるなんて、幸せなことですよ。ただ1つ忠言を述べるとしたら、もし死にたがる人に「守る」と約束した人や何かがあるならば、守らずに死ぬことは極めて無責任です。それだけは心にとどめていてほしい。知っていてほしいです。

勉強のしかた

 「一生勉強」というのは本当のことで、人は絶えず何かを学んでいきます。特に高校生までの間は、勉強が仕事だと言われます。学校で、皆が一律に同じ速度で勉強します。しかし実際は、勉強のしかたは人それぞれです。それぞれに合ったやり方というものがあります。おそらくそれは、考え方や記憶力、理解力に関係するのでしょう。

 勉強をしていると、よく、書かなきゃ覚えられないと言われました。ひらがな、カタカナ、漢字、数字、アルファベット、単語、熟語、長文、数式……とにかく覚えるときは繰り返し何度も書くことだと、わたしは教わりました。これは確かに効果があります。事実、そうやって文字を覚えてきたのですから。しかし、公式となるとどうでしょう? 解法となるとどうでしょう? わたしにとって公式や解法は、書いて覚えられる物ではありませんでした。書いても書いても頭に入らない。目も思考もただ字面をなぞるだけ。そもそも覚えることが得意ではなく、理解することが好きな性分ですので、公式や解法といったパズル的な物を覚えることに、抵抗があったのかもしれません。

 覚える物は基礎の基礎のみとどめ、極力理解するよう努めたわたしの勉強法は、“寝転がって参考書を読む”でした。頭の中で要素を組み合わせる、物事を順序立てる、解を出す、証明する――そうして勉強しました。頭の中にはっきりとイメージができあがるまで、何度も思考を繰り返しました。時折紙に書くこともありますが、思考の補助、メモ程度です。

 自分の勉強法を見つけると、勉強も楽しくなってきますね。

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