自分で作ったHTMLファイル、レンタル日記帳、Blog――。今、世間では公開日記が大流行中です。筆者も2000年ごろから日記をつけるようになり、最初はローカルでHTMLファイルを作ってサーバーに上げていたものを、レンタルCGIにし、自作PHPにし、と変化させていきました。書き始めた理由は「小説を書く時間を取れないなら、せめて日記でも書いて文章力を上げよう」です。面倒くさくて1行日記が続いた時期もありましたが、なんとか数年間続けることができました。むしろ今では日記が気晴らしになっているかもしれません。
と、自分の話をしたところで、1つ質問をしてみましょう。皆さんは、多くの人がWebで日記を公開するのはなぜだと思いますか?
思うに、日記を書く理由は数種に分けられます。
あまり印象のいいラインナップではありませんね。でも恐らくこれらでほぼ包括できると思います。特に多いのは2と4に当てはまるものでしょう。しかし有用な情報を提供しているのは1くらいに思えます。
なぜこんなふうになっているのでしょうか。もしかしたら、寂しがり屋が多いのかもしれません。ちなみに筆者の日記は全ての要素を含んでいます。ただの鍛錬なら公開する必要はありません。
学校の勉強と聞いたら、皆さんの頭には何が真っ先に思い浮かぶでしょうか。授業風景、ゆとり教育、退屈さ、寝る時間等々、いろんなものがあると思います。
授業の仕方は先生ごとに異なります。しかし「面白い授業だった!」という感想を耳にすることは、滅多にありません。つまらない、よくわからない、眠い、といった意見ばかりが聞こえてきます。なぜでしょう?
原因には、大きく分けて次の2つがあると思います。
生徒にとって高校を出るまでの授業というのは、専修高校などの専門的な高校を除くと、多くの場合で受動的です。下手な授業を受けて「わからない」と思っても、自力でそれを克服することはなかなかありません。わからなければ、つまらないのは当然です。
そう。学習の一番の喜びは、何と言っても「わかる」こと、そして「思い通りになる」ことです。もちろん、わかったからといって興味や関心、意欲が継続されるとは限りませんが、わからなければ可能性はゼロになってしまいます。
では、わかるための授業、勉強とはどういうものでしょうか。
これは筆者の経験則なのですが、「受講+復習」の組み合わせはNGです。一番理想的なものは、「予習+受講+復習」。時間の余裕がなければ、「予習+受講」でも構いません。授業はあくまで復習、慣れる場として使うのが丁度いいです。予習をせずに授業に臨むと、必ずと言っていいほど授業の進行速度についていけなくなります。ついていけないと、これまた授業がつまらなくなります。悪循環ですね。
というわけですので、教職員の方々は、生徒達に「次回の授業範囲」を必ず伝えるようにしてください。教科書の何ページから何ページというので充分です。そして生徒の皆さんは、復習なんて授業に任せて、まずは予習を試みてください。きっと、わかる喜びを味わっていただけると思います.
経験談:
筆者は小学校の6年間、常に1学年上の自習を続け、中学・高校では予習も復習もせず、大学では復習型になり、大学院で予習型に切り替えました。結果、授業を楽しく受けられたのは、小学校時代と大学院時代でした。
働きに出るとき、物を売るとき買うとき、人々はしばしば損得を考えます。自分のはたいた労力に見合わない低賃金をもらったと思ったとき、買ったばかりの物が他店で格安で売られていたとき、人は損をしたと考えます。また、ろくに働いてもいないのに大金をもらったと思ったとき、もっと高いと思っている物が安く手に入ったとき、人は得をしたと考えます。
この一見単純そうな損得というもの。さて本当に簡単なものでしょうか? 筆者はそうは考えていません。損得というのはもっと複雑で、見方1つで変わってしまう物だと思います.
なぜそう思うかについては、例を出して説明することにしましょう。次のお話を読んでみてください。
あるとき、あるところで、商品Aを扱っている商人Aと商品Bを扱っている商人Bが、互いの商品を1つずつ交換しました。そこに商人Cが現れて、商品Aと商品Bを、共に商品Cと交換したいと申し出ました。その時、商人Cが出した条件は、商品A1つにつき商品C2つ、商品B1つにつき商品C4つというもの。商人Bは驚きました。
「それなら、わたしの商品Bは商品A2つ分の価値があるじゃないか! 1つずつで交換してしまった! 損をした!」
対して、商人Aは怪訝な表情です。
「わたしにとって、商品Bは商品A1つ分の価値なんだが……」
結局、取引は商人Cの条件通りに行われました。商人Bはうなだれながら、商人Aは首を傾げながら帰路につきました。そして、そんな二人の背中を見送り、商人Cは一人ほくそ笑みました。
「商品Aは、本当は商品C5つ分なんだが……しめしめ、得をした」
さて、このお話では、得をしたのは誰で、損をしたのは誰で、どちらでもないのは誰でしょう?
答えは、はい、1つではありません。気分の上では、得をしたのが商人Cで、損をしたのが商人Aと商人B。商品の価値が商人Cの査定通りなら、得をしたのは商人C、損をしたのが商人A、どちらでもないのが商人Bです。
つまるところ、損得とは等価交換を基点にして出た差で、それは人々の考え方1つで変わります。当てはまる対象は、労働による給金、商品と金銭、宝石と宝石、時間と金銭など、全てです。
相場がしっかりとあれば、物々交換は、あまり個々の差なく行えるでしょう。しかし、相場がこれと決まっていないものも多くあります。その場合は、自分の満足できる条件かどうかが決め手となります。ただ、だからと言って、相場が確立している分野でも、一概に損得を決めることはできません。他人から見たら「損をしている」と思うことでも、本人はそう思っていないかもしれません。これが、損得を複雑であると考えているゆえんです。
以上のことから、損得を考えるときは、なるべく多角的に見るか、完全に割り切るかをしたほうがよいと思います。そして物々交換(有形無形問いません)をする際は、互いが納得する条件まで歩み寄り、腹黒く得を求めず、他人の言う損にとらわれず、等価交換を心がけたいものです。
ライトノベルという小説の分類があります。かつてはジュニア小説と呼ばれていました。10代の少年少女向けに書かれ、主人公もまた10代なことがほとんどであったために、そう呼ばれていたのかもしれません。そして、ジュニア小説がライトノベルになった経緯を考えると、ジュニア小説の愛読者達が成長し、20代、30代になってもまだジュニア小説を読み続け、ジュニアでは恥ずかしいからライトにしたのではないか――などという推測が浮かびます。
小説界でのライトノベルの格付けは低いものです。過去、小説として扱われないことも多々ありました。それは、平均的に言える文章の稚拙さ、物語構成の甘さが要因で、事実、文学と言うにはあまりにも粗末なものが並んでいます。しかし、それはそのはず。ライトノベルは文学ではなく、完全な娯楽として築き上げられてきました。読者が文章の質を重視しなければ、作家や出版社がそれに目を向ける必要はありません。ただ何となく面白ければ、それでいいのです。
もし、ずっと文学作品ばかり読んできた成人が興味本位にライトノベルを開いたなら、きっとその人は戸惑うことでしょう。今のライトノベルの文章には、特に新人作家達には強烈な癖があります。しかもその多くは、決していいものではありません。例を挙げますと、擬音・体言止め・三点リーダー・感嘆符・「っ」の乱用、意味のない段落、意味のないダッシュ、数々の手抜き、安定しない視点、突飛なカメラワーク、同じ表現法を短期間に使いまわす、無駄に難解な表現にする等々。親切丁寧な文章というものをすっかり忘れて、頭を使わずに書きやすさに走っただけのような作品が並んでいます。が、それでも売れているのですから、若年層にとってはそれが読みやすく、感情移入しやすいのだと思います。もしかしたら書き手は、深い思惑の元、わざとそう書いているのかもしれません。
ライトノベルは十代向けのエンターテインメントです。オタクと呼ばれる層に好まれる仕様をしています。まだ1冊も手に取ったことのない人は、これからも読まなくていいと思います。この分野は、どちらかと言えばオススメできません。あまりいい影響を与えてはくれないでしょう。かく言う筆者は、ライトノベルの文質の低さが目に余って、ついに読むのをやめてしまった類です。
ケータイ小説という小説形態があります。作者は十代の少女達が多く、内容は恋愛ものが大半です。そして読者層も十代の少女達、とのことです。
よく読まれているというものは、売り上げを狙った出版社によって書籍化もされました。わたしはそれを拝見したことがあるのですが、紙媒体で横書きの小説というのは、文庫サイズにするとどうも読みづらいものです。文章は小説と言うよりもト書き。わたしの視点から申し上げますと、「まるで駄目」です。しかし、全部が全部そうなのかというと、そうでもありません。中にはよくできたものもあります。ただ、そんな作品は必ず一人称視点であり、決して紙面にはありません。
ケータイ小説は画面でこそ映えます。そして書き方は一人称がいい。なぜなら、作品自体が、己の経験と感覚のみで書かれたものに見えるからです。そういう作品に適した書法は、一人称視点です。
あらたにケータイ小説を書いてみようという方は、どうぞ一人称で書いてみてください。おすすめです。