「創る心」を書いてから2年。創作意欲が萎え、物語を創りたいと思わなくなっていた期間は、4年ほどだろうか。わたしは平成17年の5月、唐突に創作の理由を思い出した。
わたしが創作を始めたのは幼稚園児の頃。純粋に創作が好きだった。しかし、高校を卒業して1人暮らしを始め、社会の中ですべきことに追われている間に、なぜ創っていたのか、なぜ創りたいのかがわからなくなった。そして、小説を書けなくなった。
皆、作家には創作する理由があるだろう。わたしは幼い頃、寝る前によくしていた遊びがある。自分が見たり読んだりした作品に自作のキャラを投入して、話の流れを変えてしまう思考遊びだ。例えば、誰かが死ぬ場面に、よくヒーローを登場させて助けていた。誰かを守ることがとにかく好きだったのだと思う。ヒーロー願望というものだろう。
目を閉じていても開けていてもいい。幼い頃から頭の中で物語を作り、楽んだ。その思考が具現化した物が、わたしの漫画であり小説だったのだ。
頭の中に描くから書ける。映像を絵や文字にする。これが、わたしの物語作りの全てであり、コツである。
わたしは、己の力を過信していない。力量を高く買っていない。だからこそ思う。
「わたしのこの力はほぼ全て、自学自習の結果。わたしでさえできたんだから、あなたもきっと自分で学べるはず」
技術面の質問者に対し、そう思う。そして実際にそう答えるときもある。
近年、自力で学習しようとする人が少ないように見える。ちょっと考えただけで10日間考えたように錯覚している人もいるようだ。参考書のない巨匠の技術ならまだしも、充分に参考書の出ている分野なら、自力で習得するのは可能なはずである。自分で学んだほうが楽しいと思うのだが、簡単に人に訊く人は、面白くないのだろうか。
「訊ける人がいる」
もしかしたら、その状況がよくないのかもしれない。その状況に慣れている人は、1からとは言わずとも1.5から訊く癖がついてしまったかもしれない。
考えても考えてもわからない。頭を掻きむしってのたうち回ってもわからない。それから訊く人は、真剣である。しかし安易に訊く人は、手抜きでしかない。なぜそう言えるか――わたしも数学に対し、経験があるからだ(父が高校数学教師)。
訊くという行為は決して悪いものではない。ただ、訊く前に充分に考えて欲しい。その「充分」の範囲を、自分で狭めないで欲しい。「やっとわかった! やった!」この感動を味わって欲しい。
以上、思考を手抜きする人々へのお願い。
よく「先ばかり考えて今を大切にしない人は駄目だ」と言う人がいます。わたしは、その意見には同意できますが、どうも相手が勘違いをしているような気がしてなりません。
先を考えるとは、つまり未来を考えることです。一寸先でも遙か先でもいい。一つはっきりと言えるのは、「先」を考える人自身にとって「今」もまた大切なものだ、ということです。理由は実に簡単。今という時間が過去の未来であり、未来へ至るための通り道であり、自分の描いたプロジェクトの中には、その時々全てが必要な要素として入っているからです。今なくして先はない。先を考える人は恐らく、過不足なく今も大切にしています。
ただ、大切にするという概念に、違いがあるのかもしれません。今を大切にしろ、と言う人は恐らく「今を楽しむ」という考え方なのではないでしょうか。プロジェクトの一環として今があるのではなく、今そのときを楽しみ、今は今だけで完結する――そういう思考なのではないでしょうか。だとしたら、きっとその人の目には、先を考えて今を大切にしている人の行動が、今を大切にしていないように映るでしょう。無理もないことです。理解することは難しいと思います。
気をつけたいのは、本当に先を考えて生きている人に、今を大切にしろと言うことです。相手のプライドが高ければ、反感を買ってしまうでしょう。
人々の考える力が低下している。そう感じたのは、大学で授業の助手をしているときだった。
物理系の出身だが、当時の専攻が計算機物理であったため、教えていたのは情報系の授業ばかりだ。MS OfficeやPhotoshopの使い方からプログラムの作り方まで。講義はしなかった。もっぱら実技中に学生に混ざって教えた。
教えるのは嫌いじゃない。授業中の雑談も好きだった(助手として問題あるが)。だが、笑いながら教える中で、学生の思考力の度合いに不安を抱いた。学生達は、頭が悪くて深く考えられていないのではない。ただ、考えることを簡単に投げ出すのだ。考えることより知ることを優先するのである。
こんな現象が見られたのは、実は大学内だけではない。いろんなところで、いろんな場面で遭遇した。人々の間で手抜きがはびこりつつあるのだろうかと懸念を抱くまでに、そう時間はかからなかった。
「やればできる」は「やらなければできない」と同義であり、「できない」と近似である。粘ることを知らない人は、すぐに粘って考えろと言われても、なかなかできない。だから、普段から慣れておくのが重要なのだ。
考えることを疎かにしないで欲しい。せっかく知的生命体に生まれたのだから、頭を使い倒そうではないか。
数年間小説作りから離れていると、ジャンルというものがどうでもよくなってきた。ファンタジー、SF、怪奇、推理。歴史、現代……敢えて分類する必要はあるのだろうか。多様な作品が出ている今、そもそも分類などできるのだろうか。最早小説界は分類不可能になっているのではないだろうか。
という前置きをするのも無駄なのが、「下調べ」の話である。何の? 執筆のだ。
学術論文を書く人で、下調べを怠る人はいないだろう。学術書を書く人にもいないだろう。なぜ彼らは下調べをするのだろうか。自分が書くものに「背景」があるからだ。
自分で1から10まで全て作った内容ならば、調べる必要はない。例えば随筆、自叙伝がそれに該当する。たとえ間違った認識をしているとしても、思ったこと、受けた体験をありのまま書くだけなら、調べずともできるし、許されるだろう。反対にそうでないものは、下調べが必須であるし、間違えることを許されない。
なぜだろうか。
理由は1つ。間違えることを前提としていないからである。
小説もまた、間違えることを前提としていない。たとえ冒頭に「この作品はフィクションです」と注意書きをしていても、「青い炎と赤い炎の松明が1本ずつ壁にかかっている。わたしは冷えた両腕をさすりながら、暖かいほうの松明――赤い松明へと歩み寄った」なんて書いてしまったら、読者はきっと眉根を寄せることだろう。「魔法の炎」とでも書いておけば大丈夫かもしれないが、炎の色が科学的に説明できる以上、意味もなく理由もなく現実世界と違うことを書くのはしないほうがいい。むやみにすれば、作品全体の色のしくみ、ひいては科学そのものを自分で作り替えなければならなくなる。そこまでしてでも自然現象を変えたいなら、咎める理由はないが。ただ、作り直すにしても、式の1つも調べないでできるのは、かつて類を見ないほどの天才だけだろう。
というわけで、小説を書く前に下調べは必要である。だが小説の場合、必要な理由はそれだけではない。下調べをしているか否か、何かを知っているか否かでは、文の幅の広がり方が全然違うのだ。これは読み応えの問題に直結し、作家ならばなんとかして好印象を得たいだろう。だから、多くの作家は下調べをするのである。いや、少なくとも筆者はそのためにする。
アマチュア作家は下調べをする人が少ない。少しでもいい作品を読者に提供したいなら、書く前に大量の資料を読みあさっではどうだろうか。普段からこつこつ雑学を得るのもおすすめだ。