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信念

 自己紹介のページにも載せているように、筆者の信念は「反省すれども後悔せず」である。この意味がわかるだろうか?

 「反省はするけど、後悔はしないってことでしょ」

 その通り。というか、それは上の文そのままである。意味的に間違ってはいないが、筆者がこの一文に込めた思いは、そんな短いものではない。

 この文の真意は「後悔しないで済むほどしっかり考えてから行動する」というものである。決して開き直るという意味合いではない。考え抜いた上で失敗したなら、それはもうしかたのないことだから、次に活かせるよう反省すればいいのだ。そして筆者の場合、後悔しないためには「模範になるか否か」「大切な人のためになるか否か」「責任を果たせるか否か」という三要素が非常に重要になってくる。

 世界があり、自然があり、人がいてこその信念。あなたは自分の中で真理を悟り、信念を持っているだろうか。

跡取りとは

 旧家の跡取りというのは、割とドラマや小説の題材にされやすい。と言っても架空物の内容は大衆受けしやすいように作られ、現実的でないのが大概だ。作家達に作られた想像世界の旧家が、一般人の脳にはある。

 わたしはある意味、貴重な人生をたどっている。一般的ではない、歩む人の少ない道。この誇り高くも呪わしく、過去の栄華にすがりつくかのような地方旧家の内実と信念を、せっかくだから文に残そうと思う。自惚れかもしれないが、いや、自惚れるような類の物ではないが、恐らくわたしほど跡取り教育の成功した者は数少ないだろう。跡取り教育を施されたという意味で。

 勘違いしている人が多いのだが、跡取りというのは決して楽なものではない。地方であればあるほど、歴史が古ければ古いほど、栄華が過去であればあるほど、跡取りになることのリスクが増える。性別が女性ともなれば、その厳しさはさらに増す。

 なぜリスクが? 厳しくてもメリットが多いのでは? ドラマのようで素敵じゃないか――。一般家庭で現代を生きる40代までの日本人は、そう思う人が多いようだ。また、50代以降の脳には古い時代の跡取りが描かれている。

 詳細をとやかく言う前に、まずは跡取りとは何たるかを述べよう。

 旧家の跡取りとは、一にも二にも「墓守」であり、土地や家を守る者である。先祖伝来の地に、家にいてこそなせる業。年に数度帰郷して墓参りすればいい、というものではない。家を離れて職に就く者は、跡取りではないのだ。いずれ帰ればそれでいい――そんな思考の持ち主は、跡取り教育が体に染み込んでいない者と言える。

 決まった家にいなければならない。これがリスクに直結する。

 当然のことだが、特定の家にいるということは、特定の土地にいるということである(それも非常に狭い範囲で)。都会のど真ん中であれば不自由はないだろうが、田舎の田舎ともなれば話は違う。不自由極まりなく、職の選択肢さえ少ない。およそ雄大な夢や希望を持つことなど叶わず、己のうちにどんな才があろうと、発揮することはままならない。

 「旧家なら財があるだろう? 職なんてどうでもいいじゃないか」

 そう思ったなら、大きな勘違いである。地方の旧家は大抵が地主の類で、昭和の敗戦と共に多くの財を没収されている。おまけに旧家は親族が多く、本家は分家を助ける立場にあるため、分家から救援要請があれば財を割かねばならなかった。収益が大幅に減ったのに出費は相変わらず……瞬く間に財がなくなるのは言うまでもない。

 現代の跡取りとは、これを継ぐ者である。つまり、特定の家に住まい、極限られた職になんとかしがみつき、財のない家を守り、親族間で何かあれば出て行かねばならない。先祖が勲二等をもらっていようと群会議院だろうと東条英機からの文書を受け取っていようと、忘れてはならない肝心のことは、今は昔と違うということだ(しかし愚かなことに、何年経とうと過去の栄華にすがりつく輩がうようよといる。そして皮肉なことに、そういう人が跡取り教育に長けている。なぜならば、跡取り教育とは無垢な赤子時代から繰り返し同じ思念を刷り込む洗脳作業だからだ)。

 わかるだろうか? デメリットの塊を受け取る、それが即ち「地方旧家の跡取りになる」ことに値するのだ。ゆえに、多くの跡取りは苦悩する羽目となる。

 さて、ここで跡取りの役目のさらに深部についても語ろう。

 跡取りが家を守ることの中には「跡取りを作る」という作業も含まれる。過去より権力者は大抵多くの人間を抱えているので、跡取りを作ってその組織を維持する必要があった。否、必要だけではない。「自分が頭目でいたい」という欲望も理由の一つだろう。子供というものは、親にとっては手足のようなもので自分同然。だから子が組織をまとめることは、自分が組織をまとめるのに等しく、そのために子を作る必要があった。

 しかし問題は、現代の地方旧家は家来などいない、という点だ。おまけに今の分家は血族意識が薄いため、まとめる必要性などほとんどない。ということは、現代の「跡取りを作る」という行為は昔の名残、強迫観念のようなものだと考えられる。強迫観念から親は子に跡取りを作るよう要求し、実現させることで「心の救い」を求めるのだ。

 なぜ強迫観念があるのか? 恐らくそれも「跡取り教育」の仕業だろう。

 先にも言ったように、跡取り教育とは赤子時代から施される洗脳である。洗脳が成功すると、受けた人の深層心理には決して覆すことのできない、誰の意志でも変えることのできない感覚が埋め込まれる。例えば、息苦しさから逃れるため跡を取ることをやめようとした場合、自分の中で「何かが違う」という感覚が現れるのだ。もどかしいにも似た感情。もぞもぞと、「違う」「これは違う」気持ち悪いくらい自分の中で反感と罪悪感が生まれる。自由を得ても開放感を得られない。ただ苦しい。つまり「子を作らねばならない」と埋め込まれたら、作らない限り苦しむ。

 わかるだろうか? 跡取りとは何なのか。

 地方旧家の跡取りは、多くの負を背負う者であり、心の中に血肉でできた鎖を抱える者なのだ。鎖を無理矢理断ち切ることは、その者を苦しめることにしかならず、いずれ敵意を買うことになる。力ずくで切ると、相手は罪悪感のあまり自殺に走りかねない。ただし、これは洗脳が成功している者に限る。洗脳に失敗した者、中途半端だった者は、逃げたほうが気が楽になるかもしれない。

 はっきり言えるのは、真の後継者はどう転んでも苦しむ。緩和するには、心の奥底にある声に従うより他ない。跡取りネタで物語を創る人は、このことを考慮して作ってみて欲しい。

 最後に。洗脳を受けた者でありながらなぜこんな分析をできるのか、不思議に思う人がいるかもしれないので、それについて答えよう。理由は1つ、わたしが「ただの跡取りではないから」だ。

 わたしは胎児の頃から跡取り教育を受けた者であり、自由と束縛の狭間に生きてきた者であり、女性でありながら生家と異なる家を継ぐという特異な境遇にいる。「自分も養子なのに婿養子?」「わたしの腹は貸し物か?」憤慨の日々を送っていた。自分はまるで道具だ、と。その他、夫となる人を不幸にする可能性に不安を抱え、自分は一人のほうがいいのではないかと考えた。

 そんなふうに普通の跡取りよりも悩む点が多い分だけ、わたしは自分と跡取りというものを掘り下げて考えることができたのだろう。辿り着いたのは、この苦しみをわたしの代で終わらせようと心に誓うことだった。苦しみの連鎖を、これ以上続けてはならない。

 (注:現代、婿養子という制度は存在しない。婿取りというと「婿養子」を思い浮かべる人が多いが、それは誤りである)

感謝と謝罪

 この世には素晴らしい言葉が2つある。

 ありがとう――Thank you.

 ごめんね――Sorry.

 革(あらた)まると口に出すのが少々照れくさいこの言葉は、大安売りをすると逆効果になりかねないが、真意と共に吐き出すことで絶大な効果を現す。人々と生きる上で重要なものだ。

 だが悲しいかな。意外とこの2つを言えない人が多い。単に口下手な人もいれば、本当に謝意を持っていない人もいる。その人達は実にもったいないことをしている。これらの言葉は、相手の気持ちを動かすだけではなく、自分の心にさえ響くのだ。

 「ありがとう」と言えば気持ちがいい。

 「ごめんね」と言えばスッキリする。

 世界の全てに感謝したくなる時、謝罪したくなる時を、皆に1度は味わってみて欲しい。体と心が健やかなるうちに。

子供が子供を持つ時代

 「できちゃった婚」というものがあります。平成17年の今や、恐らく結婚する夫婦の過半数が、この「できちゃった婚」でしょう。では話を進める前に1つ、読者に質問します。あなたはできちゃった婚をどう思いますか?

 少しシチュエーションを考えてみましょうか。

 ある学生カップルがいるとします。2人はとても愛し合っていて、2人の感情の赴くままに体を重ねていたとします。

 ある日、彼女は不安に襲われました。予定日なのに月経がこない。滅多に遅れることはないのに……。

 次第に彼女は、普段、気持ちの赴くままに子作り行為をしていたことを悔い始めます。どうしようもない焦燥感で、夜もなかなか眠れません。子供ができていたらどうしよう。そんなことばかりが頭の中をよぎります。

 1週間後、彼女に月経が来ました。恐怖にも似た不安を抱えていただけに、飛び跳ねんがばかり喜びました。

 それから半年、彼女は相変わらずの彼とのつき合いを続けました。そしてまた、予定日に月経がこなくなりました。前例がある。だからきっと大丈夫。そう自分に言い聞かせても、やはり不安です。

 1週間が経ち、2週間が経ち、彼女はとうとう我慢できず検査をしました。結果は陽性。彼女は絶望と共に泣き崩れました。

 自分はまだ学生。彼もまだ学生。親にばれないように中絶しようか。でも、中絶したら不妊率が上がると聞く。大好きな彼との子供だから、やはり産んだほうがいいのだろうか。

 彼氏に打ち明けると、彼氏は彼女以上に動揺しました。しかし、気持ちが幾分か落ち着いた頃を見計らい、双方の親に告げました。子供ができてしまった、と。

 結局2人は結婚し、子供を産みました。彼女は学校をやめて主婦に、彼氏は就職の問題からそのまま学校に在籍。親の援助をもらいながら、なんとか卒業までこぎ着けました。

 2人の生活ぶりと言えば、さざ波だっていました。愛し合っていた2人のはずなのに、一緒に暮らすとぶつかることばかり。育児で苛立つ妻、若い身で不本意ながら家族を背負うことになった夫。2人の間には徐々に亀裂が生じました。

 数年後、2人は離婚しました。生活保護を受ける若いシングルマザーと、早々に他者と恋愛を楽しみ始める夫。2人と、2人の間に産まれた子供が、その後どのようになったかは……ご想像にお任せします。

 全てのパターンを網羅することはできません。なので、1つ仮のお話を作りました。皆様の所感はどのようなものでしょう?

 この「できちゃった婚」というもの。わたしは、その言葉を聞くだけで「本人達は自虐しているのか?」と感じてしまいます。できちゃった、とはいかにも子供っぽい台詞。そして自分達の行動がいかに無計画、無謀であったか、自分達の考えがいかに浅はかであったかを示すがごとしです。

 わたしの考えでいけば、子供を立派に育てられる人は親、育てられない人は子供です。結果論から言っても、できちゃった婚には子供が子供を持つケースが多い。これは非常に問題です。もっとも、親でありながら子供な可能性のある人は、運良く(?)恋人時代に子供を授からなかったとしても、結婚して子供をもうけてから同じ道をたどるでしょう。

 子供が子供を持つことを許す弛緩社会、日本。わたしはここで、親の親たる教育を望みます。房事を持てば子供ができる可能性は0%ではありません。行為に及ぶならば、子を持つ度量と覚悟を携えるよう、今の子供達に教育してください。避妊しろ、ではありません。覚悟を持て! そうおっしゃってください。

 己が行動の結果を予測し、責任を持てる日本人を、作っていってください。

必要な善悪

 必要悪という言葉があります。広辞苑では次のように定義されています。

 「悪ではあるが、社会の現状からいって、それが(やむを得ず)必要とされるような事柄」

 昔の中国で言えば、侠のような存在でしょうか。ですが日本一般では、ちょっとひねった意味で使われることが多くあります。

 「社会が成り立つために必要な悪」

 どんな悪でも、それを指します。例えば殺人。殺せば悲しむ人がいるから、それは悪である。しかし、それを知っているからこそ、してはいけないという善が成り立つ。光があれば陰があるようなものですね。否、この場合は光のために陰があるというところでしょうか。

 しかし、闇は闇。光に包まれた部屋に影は必ずできますが、闇に包まれた部屋に光は必ずしもありません。闇に包まれた社会や人心は、発光体がない限り光を持たない。これは実に恐ろしい。

 今、日本は道徳を失い、精神の混沌とした時代にあります。何が正しいなどない。何が悪いなどない。全てが主観だと、誰でも突っぱねることができます。これは必ずしも悪ではありませんが……否、語ることすら愚かでしょう。所詮はわたし個人の言です。

 多くは語りません。各人で考えてみてください。ただ1つ。わたしは日本人の心に必要善を求めます。光は、保っていかなければ光り続けることはできないのです。

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