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電子的な自由世界

 WWW(World Wide Web)――それは、安価で世界に情報を発信できるところである。アマチュアの作家達は、Webという自由世界に入り、自分の作品を思うがままに載せている。

 オンライン小説は、日本が最も栄えているのではないかと思う。これでもか!――というくらい溢れ返っている。数が多いだけに、よい作品から悪い作品まで多種多様にある。読み応えのある作品を探すのは、意外に大変なことだ。が、中にはプロと同じくらい力を持った作家もいる。

 最近、ネット上で様々な問題が起きている。盗作や無断販売、詐欺、ネットストーカー……これからもっと増えるであろう。ネット住民の責任感が、全体的に薄いのではないかと思う。個人情報を隠したまま、あらゆることができるからではないだろうか。ばれないと思っているのではないだろうか。考え方があまいのではないだろうか。ネットでの犯罪は暴かれるのだ。「ばれない」と高をくくってネット犯罪などするのは、実にあまい。

 だが、未解決未発見のネット犯罪は、数え切れぬほどあるであろう。警察庁の情報処理課の解決速度を、犯罪の増加速度が上回っているのだ。容易に予想される事態だが、実に恐ろしいことである。

 合法なネット住人達は、これらを踏まえて動く必要があるだろう。自由に情報発信・受信ができる素晴らしい世界だが、それに比例して危険性も高い。それを知らないと、とんでもない目に遭うことがあるかもしれない。

 オンライン作家達も、「無断転載禁止」と書いていても、やはりいつ盗作または無断転載されるかわからない。重々注意したほうがいいだろう。そして、ネット上での自分たちの責任を見失ってはいけない。「置き捨てサイト」を開くくらいなら、開かないほうがいい。他人を中傷誹謗するのはやめたほうがいい。小説サイトでたまに見受けられる「メールアドレスなしでBBSで罵倒する」という行為は最低である。

 こうしてネットで活動をしてよく思うのが、「蒸発行為をやめてほしい」である。メールアドレスが使用されていない、HPが消滅している、連絡が取れなくて困る――わたしだけでなく、何か大きな企画で多人数を扱っている人は体験しているであろう。何かに登録したならば、アドレス変更時には変更届を、ネットから去る場合は削除願いを出すべきである。

 とにかく、ネット住人達は「自由世界での責任」をもう一度考え直すべきだろう。自由世界にも法はあるのだ。

音楽と物語

 小説を書いているとき、詩を書いているとき、わたしはよく音楽を聴いている。歌のない曲だ。歌詞があると、どうしてもそれに耳が行ってしまう。わたしの創作の手助けになるのは曲の雰囲気だけだから、歌詞は必要ない。

 曲だけを選ぶと、どうしてもフュージョンやクラシックに偏ってしまう。が、今はこれで足りている。静かな曲は、実に心を安らがせる。物語を書く上で心が安らいでいると、実に気持ちよく書ける。こう感じるのは、わたしだけであろうか。――いや、多くの執筆かが体験しているのではないだろうか。

 音楽を聴きながら、わたしなどは物語を思い描く。その曲に似合っていると思われる物語だ。もちろん、人によっては違うように描くかもしれないが、それは全然構わない。曲から、緊迫感や開放感、様々なものを感じ取れる。その感情は、元から意図的に曲中に込められていたものではなく、聴き手が勝手に妄想したものである。そう、妄想でいいのだ。人ごとに感じ方が違うから面白いのである。

 聴き手の中には、曲は1つの物語を語っていると考えている人がいるかもしれない。が、偉大な音楽家は言った。「音楽は物語ではない。音楽はただ音の集まりなのである。あなたが音楽を聴いて何を思い浮かべるかは自由だが、それが音楽の中身なのではない」。

 音楽家は、曲に己の気持ちを込める。気持ちの高まり静まり。それぞれの音楽家が何を感じて何を思って曲を作ったかなど、正しいことは音楽家自身にしかわからないだろう。曲の深層を知ろうとすることは、物語で国語問題を作るくらいに、愚かなことである。

 音楽とは、そのようなわけのわからないものだが、わけがわからないゆえに、創作に役立つ。これこそ発想の自由だ。曲を助けに、自分なりの物語を作る。独創性に溢れている。作品に作家の性質が、もろに表れるであろう。

色恋勝敗論

 まず言おう。わたしは恋愛感情というものが乏しい、もしくは欠如しているようだ。そのわたしが綴る「色恋勝敗論」は、もちろん実験に完璧に基づくものではなく、得られた情報、そして自分がわずかに持っている実験結果から考察したものである。カルノーの「省察」のような物だと思って欲しい。ここでカルノーを出すなど無礼千万きわまりないものだが、構成的に似たような物と判断できる。

 恋愛は戦争に似ていると、わたしは考えている。「つき合う」という状態に至るまでは、まさに戦争ではないだろうか。戦争に勝ちたいのならば、まずは己を知り、相手を知らなければならない。情報収集が大切である。相手を全く知らずに告白しても、相手が誰とでもつき合う性格や気まぐれな性格、もしくは偶然にも相手が自分に好意を持っていた場合、相手が「誰かとつき合ってみたい」と思っていた場合、それら以外の時で勝利は難しいと考えてよいだろう。

 では、どうすれば勝利に近づけるのか。

 わたしが考えるに、まずは相手に近づく必要がある。相手のことを知り、相手にも己の存在を知らせるのである。行き過ぎてストーカーと化す例もあるようだが、ストーカーはどう考えても却下だろう。ストーカーになりかけている人や、もしくはなっている人には、「ストーカーをして相手が喜ぶだろうか?」と考えてみることをすすめる。「喜ぶ」と思うのならば、わたしには何も言うことはできない。実際に相手は喜ぶのかもしれないし、本人の思い込みに過ぎないのかも知れないが、どちらにせよわたしが本人に言うべき台詞はない。

 話を戻そう。勝機を掴む方法は、情報収集、接近、他に重要なのは「相手の気持ちを掴む」ことである。これは努力して成る場合もあれば、自然と掴める場合もある。本人次第であろう。相手のことがそれなりにわかり、相手も本人をそれなりに知っており、相手の気持ちを掴む段階にまで行けば、勝利の可能性は格段に大きくなる。

 以上、わたしの考え得る勝機取得法である。ちなみに、この論には「双方一目惚れタイプ」は入っていない。なぜなら、双方一目惚れならば、論ずるまでもなく、勝敗も関係なく、二人は惹き合うであろうから……。

熱い飲み物と火傷

 このネタが思い浮かんだのは、夜、わたしがカップでポタージュ・スープを飲んでいるときである。少し時間を空けて飲んだはずなのに、スープの上面が非常に熱くて、危うく火傷をするところだった。そして、上面を越えてしまうと、中は火傷するほど熱くはなかった。なぜだろう? 考え得るに、「少しの間」でスープ内の熱が移動したのと、わたしの口が一口目で熱に馴れた、がある。両方が作用したのかもしれない。

 少しでなく、長めに時間を置いた場合、スープはぬるくなってしまう。底に行けば行くほど、ぬるい。これは、飲んでいる間のわずかな時間で冷めたからとは思えない(もちろん多少なりとも下がっているであろうが、それは考える必要がないほど小さい)。となると、やはり熱が上に移動しているのだろうか。熱湯を入れた瞬間は当分布されていた熱も、時間を空けることによって上に移動し、底の熱が下がるのではないだろうか。

 では、熱いまま火傷することなくスープを飲むためには、どうすればいいか? わたしは、「かき混ぜる」というのが思い浮かんだ。少し時間を空けてから、スープをかき混ぜるのだ。そうすれば、スープ内は全て等温になり、飲み頃になると思われる。

東京と大阪

 東京でとあるラジオを聴いてて関西出身のある歌手さんの台詞聞いて、「やっぱ東京と大阪は対立してるんだなぁ」と笑った。大阪で音楽やっててデビューし、事務所もろとも上京したら「魂売った」ことになるらしい。

 わたしは兵庫で生まれ、千葉の市川市で言葉を覚え、兵庫に戻って関西弁も覚え、今度は東京に来た奴だから。どっちにも愛着があるんだけど、関西弁も関東弁も中途半端だ。もちろん、喋る関西弁は「なんちゃって」じゃないし、関東弁も「なんちゃって」じゃない。ちゃんとイントネーションの違いもわかる。考えなくても切り替えできる。

 兵庫は大阪とは少し違って、めちゃめちゃ東京を敵対視はしてるわけではない。関東弁を喋る人を見つけたら、珍しがるくらいで終わる。というわけで、上京しても魂売ってるわけじゃないと思うけど……本当のところはわからない。少なくともわたしは売ってるわけじゃない。

 そう言えば、上京してから困ったことがある。わたしの「ボケ&ツッコミ能力」が衰えているということだ。兵庫の実家に帰省したとき友人と会って、「ノリ悪なったな~」と言われてしまった。これにはびっくりした。なんとかしなければ!

 焦る気持ちはあるけれど、どうしようもないのが現実である。関東と関西のノリは全然違って、笑いの点にも違いがある。合コンとかしたときでも、周囲みんなが笑ってても何が面白いのかわからず、凹んだことがあった。ああいうときは本気で関西に戻りたいと思う。関西人が「東京の人は冷たい」というのは、ここら辺のノリの違いにあるのではないだろうか。

 とにかく、東京在住関西人は今日も元気に生きている。

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