目次

Documents

Home

About

Tools

Support

モバイルCANADOH

人に好かれる方法

 最初にことわっておくが、これは心理学の類に基づいて書かれているわけではない。1人の人間がこれまでに得た経験、考えから出したものである。

 人に好かれるにはどうすればいいか。効果的な方法として言えるのは「相手を好きになること」ではないだろうか。嫌いな相手から好かれること(恋を除く)は、経験上あり得ない。だが、嫌いだった相手を無理にでも好きになったとき、筆者はその相手から好かれるようになったことがある。つまり、嫌い嫌いでは生活が窮屈になってしようがない、というとき、まず対象を自分が好きになってみよう。なかなかできることではない、と言われるかもしれないが、それはどれだけ本人に「やる気」があるかで変わる。

 しかし、好きになったからといって、相手から必ず好かれるようになるわけではない。好きにも種類があるからだ。そしてそれは性格というものが大きく作用する。

 筆者の身近にあったことを例に挙げるならば、「好きになる=心底頼る」という急激な変化をさせたため相手から嫌われてしまった人がいる。かなり自己中心的な行動が多かったせいだとも言える。好きになる以外、「自分を思いやる」ではなく「相手を思いやる」ことも重要なのだ。

 友達ができなくて悩んでいるならば、何より先に自分を見つめ直し、「相手を好きになる」ことと「相手を思いやる」ことを実践してみるといいだろう。だが、焦って人を選び間違えないように。間違えると単に利用されるだけということになりかねないのを、肝に銘じて欲しい。

煙草と薬の後進国・日本

 日本は煙草と薬物の消費が多い国として、周辺国から狙われているようだ。狙われているというのは、「日本にどんどん輸出してやれ」ということである。現状を見、筆者は母国の国民に危機感を覚えてならない。

 煙草と麻薬は同等、どちらも非常に依存性の高い物だ。接種すればするほど手放しがたくなり、精神力の弱い者――自分の欲に弱い者がが手を出せば恐らく二度と手放せない。これは非常に危険である。だが日本には該当者がごまんといる。情けなくてしかたがない。

 「他人に迷惑をかけなければいいじゃないか」「税金を多く払ってるならいいじゃないか」「人の嗜好品にケチをつけるな」そんな意見が出てきそうだ。確かにその通り。個人を見るなら同意だ。しかし日本人という集合体を見た場合、感染的、依存的、人体に有害、利益わずかな嗜好品を好む性質というのは明らかに「弱点」である。いや、問題は好むところではなく「弱い危機感」「離れられない弱い精神」かもしれない。それで他国が儲かるなら人助けにもなるじゃないか、というのは稚拙な言い訳だ。税金を多く払っているというのだって、別に普段「借金豊富な日本国の助けになりたい」という意志で煙草を買っているわけではあるまい。あとで考えついた言い訳でしかない。依存者は、己の欲に溺れているだけだという事実を隠すべきではない。

 煙草、薬の最先端を行っている国々は、とっくに「これらは有害。なくすべきだ」という運動が大きくなっている。法律にも組み込まれ、活動はますます活発になっている。だが日本はどうだろう。世界的に先進国と謳われているのにもかかわらず、こういったことにはとにかく対応が悪い。原因は察するに、上層部の人間に問題があるのだろう。上の人間も麻薬的嗜好品に「やられている」可能性が高い。そして致命的なことに、今の日本人を見事引っ張れる人がいないのだ。愛国精神と統率者の器を持つ者がまだ現れていない。

 これから日本はどうなるだろうか。わたしは日本人であることに誇りを持っている。日本に必ずいい未来を手にして欲しい。早急に国民一人一人が国のあり方を考え直すべきではないだろうか。

女性の論理的恋愛道

 異性であれ同性であれ、恋人ができたと言えば、それは「つがい」ができたことを意味する。中には「妻(夫)と恋人は別」や「何人も恋人がいる」と言って、つがいが1組でない場合もあるだろう。だが、ここでは「異性同士のつがい1組」の場合について主に考察する。あらかじめ述べておくと、「恋は下心、愛は真心」のような文字的考察も行わない。

 同じ恋愛といえども、女性と男性ではやはり異なるだろう。筆者は女性なので、男性については憶測しかできない。そして恐らく、憶測しても的はずれになる。この理由から、男性の恋愛観については語らない。あくまでも女性の恋愛観、女性から見た男性について述べる。

 恋愛感情は理論的ではない。仮に「そことそことそこが条件に合ってるから好き♪」という理由で愛情を語るならば、本当にそれは恋愛感情なのか非常に疑わしい。恋愛は実に本能的な感覚ではないだろうか。理性ではコントロールしがたい。それゆえに厄介な存在となる。

 厄介な理由は1つ。「相手のことを考えずにいられない」ところだ。よっぽど本人が我が侭でない限り、相手の嫌がることを避けようとしたり、相手が望むことをしようとする。嫌われたくないという気持ちが生まれるだろう。好きならばごく普通のことであり、思いやりがあるのはいいことだ。しかし、時と場合によってはそれが望まぬ結果を生む。

 例えば、女性と男性、双方にあり得るのが「利用されただけ」というもの。さんざん奉仕したにもかかわらず、相手の気持ちが実は本物ではなく、もしくは相手の移り気が激しく、呆気なく振られてしまう。経験者は割といるのではないだろうか。

 女性だけにあり得るのが「望まぬ妊娠」。男性の要望に従順に従えば、経験の浅い人ほど恐らく高確率で妊娠する。離婚率の高いできちゃった婚が多発する現代が、事実を物語る。若年者の中絶も後を絶たないという。

 他にもいくつかあるだろうが、それはそれぞれ考えていただくとしよう。上記2つについて考えると、まず思うのが、なぜ後悔する前にやめなかったのか。

 「好きだから」ではないだろうか。端から見れば非常に馬鹿馬鹿しい状況でも、好きだからという理由で続けてしまう人がいる(正しくは、やめられない人。恋は盲目とはよく言ったものだが、この場合「恋は麻薬」のほうが相応しく見える)。望まぬ妊娠でしばしば聞く「彼にせがまれたから……」というのも、相手の望みを叶えてあげようという思いやりが悪因していそうだ。

 恋愛は本能的だからこそ難しい。優しさが自分を、相手を傷つけることがある。それでも、後悔する場合には「浅はかさ」も多く見受けられる。どんなに外因があっても、言い出したのが自分ではなくても、自分の行動を最終決定するのは自分だけである。誰の体にも、操り人形の糸はついていない。

 自分を客観視する目を持ったほうがいい。自分の立場をよく見て、考えて欲しい。今の相手は本当に自分に相応しいか否か。周囲に迷惑をかけていないかどうか。相手を失ったときのことを考えると、案外たやすく自分の心を知れるだろう。

 難しくて悩めるが楽しいもの、それが恋愛である。1人でも多くの人が、人間として他の生物に恥ずかしくない恋愛をしてくれることを願う。

オタクを探る

 オタクとは何だろうか。

 アニメ・漫画オタクを連想する人もいる。2次元美少女キャラを追い求める不潔集団を連想する人もいる。マニアより軽度のこだわりを持った人と考える人もいる。実に定義の曖昧な用語だ。恐らく、比較的新しい用語だからだろう。

 辞書には、どう書かれているだろう。何冊か国語辞典を引いてみた。するとなんということか、辞書によってバラバラ、曖昧なのである。はっきりと記されていたものを1つ挙げると、オタクを「お宅」の俗語として、「趣味の世界に没頭して人付き合いを好まない性格の人物」というのがあった。果たしてどれが正しいのか。

 筆者はオタクと聞くと、あまりいいイメージを持たない。「現実的でない架空上の物事に思いを馳せる、下手すれば自分の中で現実と架空をすげ替えてしまう人」と直感する。だが実際は、現実的思考であり性格も風貌もよく漫画オタクと自称する人もいる。その一方、非現実的で危険性さえ感じさせるオタクもいる。

 インターネット上でオタクについて調べてみると、いろんな人の考察を読むことができた。わかったことは、やはりオタクに対しての認識が千差万別であるということ。起源が曖昧な時点で、オタクの定義を求めるのは難しいのかもしれない。

 この論題は、もっと狭義で攻めたほうがよさそうだ。続きはまた別の機会で述べるとしよう。

子育てと道徳

 子育ては胎教からと言われる。音楽を聴かせたり本を読んだり、母親の心が穏やかだと、子も穏やかに育つらしい。筆者は、まだ母になったことがない。だから子育てについては、周りから聞いた範囲、文献から得た知識である。体験的には語れないが、ここでは論理的に語ってみよう。

 現世、受動的な子供で溢れかえっている。それは教育実習などで10代と触れ合い、得た感想だ。無気力、無意欲、無関心。短絡的思考も多い。また、簡単なほうへ簡単なほうへと思考を逃がし、虚構に走る子もいる。なぜそうなってしまったのか。

 第1の要因は「親」である。精神的に幼稚な親が多いのではないだろうか。子供のことをよく考えない、客観的思考を持てない親が多いのではないだろうか。もしあなたが親ならば、振り返ってみてほしい。普段、子供とどんな会話をしていたかを。

 子供に道徳を教えるのは親の役目である。そして道徳とは、集団社会で穏やかに生きるための必須要素だ。道徳を知らない子供は、運良く周りの環境でそれを習得できない限り、自己に甘く他人に厳しい人間になるだろう。後先考えずに行動し、失敗しては自分の環境を悲観するだろう。野に棲む動物のように、欲望のままに生きるだろう。時には背伸びし、時には開き直り、責任を取ることすらできず、己の鍛錬を図れない者達。子供をそんな人に育てていいはずがない。

 では、子供に道徳を教えるにはどうすればいいだろうか。

 最も簡単なのは、子供と多く話すことだ。人道に反することをすれば理由を述べて叱り、よいことをすれば褒める。子供はまず、親と語ることで道徳とコミュニケーション技術、思考力の基盤を身につけるのである。

 実はこの交流というものが、今一番不足している。TVばかり見て対話のない家族は、非常に問題であろう。

 筆者は子供のころ、食事のときはTVを見てはいけないと言われて育った。見ないと静かすぎて居心地が悪いというのは、会話がないからだ。会話をすれば、食事の場は楽しい団欒の場となる。ただし、注意すべきは、親ばかりが喋るのではなく、子供から話を多く聞くようにすることである。子供に「話す機会」を与えるのだ。そうすれば思考力も養われる。

 このように子育てにおいて、まず子供の基盤を道徳で固める。そうすれば上に何が重なっても、根っこは道徳にそぐったままだろう。それに加えて充分な思考ができれば、子は人に成るために伸びることができる。

 最後に1つ言っておこう。親が「親」でなければ子は「人」にならない。親が子に与える影響は大きい。親とは何か。今を生きる親たちに、今一度考えてほしい。

関連用語

関連サイト