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勉強するには金が要る!?

 勉強とはなんだろうか。大辞林より抜粋してみた。

  1. 学問や技芸を学ぶこと。学習。
  2. ある目的のための修業や経験をすること。
  3. (商人が)商品の値段を安くして売ること。
  4. 物事にはげむこと。努力すること。〔原義〕
  5. 気が進まないことをしかたなくすること。

 (5)の意味には驚いた。気が進まないことをするという意味ができたのは、勉強=嫌いという思考の人がいるからかもしれない。なかなか面白い。

 筆者は現在(平成15年)大学院で博士課程前期1年に所属している。大学、大学院といえば、学問をするところというのは周知のことだろう。もっとも、大学に勉強目的で進学する人は半数にも至らず、大抵が遊ぶことを目的としているようだ(これは日本の学び舎の存在意義が、他国に比べて甘く見られているからではないだろうか)。

 ご存知の通り、学校、塾、予備校というところは「学費」のかかる場所である。参考書代、実験費、施設費など、その他細かい費用がかかって、大学ともなれば年間で国公立理文と私立文系が数十万、私立理系が百数十万、芸術系や国公立医学部が数百万で、私立医学部は一千万を超える。これだけの大金を払って、学生はどれほどのことを学ぶのであろうか。

 恐らく、実技系以外は「ほとんど無修得」といった状態で卒業していくだろう。単位は取っても頭に残っていない――よくあることだ。勿体ない話である。金を払った分だけ知識を吸収、技術を修得してやろう。そういう意気込みの学生が少ない。

 偉そうに述べてきたが、筆者も大学生時代に得た知識といえば、何百万も払った割には大したことがない。大学数学、物理学の知識が多少身につき、Cと JAVAのプログラムを少々扱えるようになった程度だ(しかも、JAVAは完全独学である)。中学・高校の理科教員免許を取得したのは、大卒ならではだが……。

 金をつかわずに勉強できないものだろうか。院で学習を続ける中、ふとそう思う。

 苦学の末、大業をなした人間として有名な人がいる。「二宮金次郎」、学問の象徴で彼の姿を見た人は多いだろう。彼は裕福な地主の息子として生まれながら、当時の不況のために両親と財をなくした。その後、奉公に出ながら自分で菜種を育て、その油で夜、火をともして学問を続けたという。仕事で薪を背に背負いながら書物を歩き読む姿が、印象的なものとして知られている。なかなかできることではない。だが、そんな彼だからこそ、よくわかったはずである。「学問をするには、時間と金が必要である」と。

 実際には銭を扱わなかったかもしれない。それは当時、物々交換の交渉が成り立つことが多かったからだ。少しの菜種を貸してもらい、それを植えて何倍もの菜種を収穫し、借りた分以上を返して残りで再び栽培する。通常は銭で買う菜種油を、彼はそうして上手に手に入れた。厳しい環境にいたからこそ、知恵をしぼった。実に尊敬に値する。

 勉強するには金が要る。その金は時として物であり、時間であるだろう。「分」を見失わなければ、1日1日を非常な財産にできる。現代日本の学術の徒よ、無為に過ごすことなかれ。

容姿と中身

 「人は見かけによらない」

 よく使われる台詞だ。現に筆者も、しばしば言われることがあるし、言うこともある。

 だがそうは言っても、最初に人を判断する材料となり得るのは「容姿」だろう。ぱっと見てなんとなく性格を推測してしまった経験は、大勢が持っているのではないだろうか。気が強そうだ、優しそうだ、真面目そうだ――頭の中で自然とその人のイメージを作り上げる。

 これまでの経験から思うに、容姿というのは中身にかなり通じるものがある。例外的に見た目と全然違う性格を持つ人もいるだろうが、大体は姿、しぐさから得るものと一致する。特に目だ。目元と性格はよく似ていることが多い。

 結局、容姿というものは(親から与えられた物以外)自分で作り上げているのだから、性格が表れて当然だろう。姿と性格、思考を完全に切り離すというのは、なかなか難しいことだ。

 だからと言って、別に見た目から人を判断していいと言っているわけではない。見ただけではわからない部分もたくさんある。どんな風に見えても「思い込む」ことだけはやめたほうがいい。固定観念を持ってしまえば、あなたの視野はたちまち狭まってしまうだろう。

ネットゲーム

 今やインターネットゲーム(別称オンラインゲーム。以下「ネットゲーム」)と言えば、ゲームをする人なら必ず1度は耳にしているだろう。それくらいゲーム社会に浸透してしまった。

 ネットゲーム繁栄の原点はBlizzard社の「Diablo」であった。シングルプレイヤー・モードに加え、インターネットを通じて行うマルチプレイヤー・モード(以下、マルチモード)。マルチモードでは、自分がホストになってゲームを立てたり、誰かが立てているゲームに入ったりして一緒に遊ぶ。見ず知らずの人と出会い、共に冒険する楽しみを得られる。

 筆者が体験したネットゲームには「Diablo」「Diablo II」「Dungeon Siege」「ポトリス」「Ragnarok Online」「アスガルド」「天上碑」その他オセロなどのミニゲームがある。「Diablo I/II」と「Dungeon Siege」「ポトリス」そしてミニゲームはゲーム的な面白味のほうが遥かに高いゲームであったが、その他のネットゲームはチャット的な楽しみのほうが上回った。

 なぜ楽しみ方が別れたのだろうか。理由は思い当たる。マルチプレイヤーモードの違いだ。

 「Diablo」や「ポトリス」の場合、プレイヤーが“部屋”を作って、そこに他のプレイヤー(大体、最大で8人)が参加して遊ぶ。つまり、一度に出会える人数は限られており、望めば自分だけでも遊べるため、アイテム集めや鍛錬に腐心することができる。これはシングルプレイと同様の感覚を持ちやすい。

 一方、「Ragnarok Online」や「アスガルド」は、プレイヤーが“部屋”を作ることはできず、1つの世界に全員が参加して遊ぶことになる。となると、出会う人の数は計り知れず、自分だけで遊ぶことはできないので、リアルワールドと同様に他人に気を遣いながら遊ぶ必要性が出る。自分の性質が周囲に知れ、また周りの人の性格を知ることもでき、ゲームとして遊ぶよりも人間同士の関わり合いが強くなる。ゆえに人付き合いの上手下手、すなわちプレイヤーの社交性が、プレイする上で顕著に影響を及ぼす。

 どちらのほうが性に合うかは、人それぞれだろう。後者に至っては、どれくらいリアルとヴァーチャルで割り切れるかによって、楽しみ方も随分変わってくる。ただ、どちらにしても人との交流がゆえ、ネットゲームは大きな長所、短所を併せ持つ。

 長所は、国境を越えていろんな人と出会える点だ。チャットルームとは違って喋るだけではないので、性格面でより多く相手の情報を得られる。一緒に冒険をするだけで仲間意識も芽生えるだろう。時には、かつてないほど相性のいい人に出会うこともある。それはリアルで出会い交流するのと何ら変わりない。

 短所は、中毒性である。これはポトリスやオセロといった短時間で楽しめるゲームよりも、MMORPGと言われるRPG系のネットゲームで起こりやすい。そして中にはネットゲーム依存症になり、現実の自分を見つめることができなくなる場合がある。アイテム収集やレベル上げに熱中している人ほど、その傾向が強いように思える。

 「アイテムを集めたりレベル上げをするだけなら、シングルプレイヤーゲームと同じだろう? 中毒性はシングルプレイと同じでは?」

 こんな疑問を持つ人がいるかもしれない。

 シングルプレイ用ゲームで遊ぶのと、マルチプレイ用ゲームで遊ぶのとは、同じアイテム収集やレベル上げでもその実は異なる。恐らく、ネットゲームでアイテム収集・レベル上げをひたすら頑張る人と言うのは、自己満足よりも自己顕示――「自慢したい」という意識のほうが高いのではないだろうか。高レベルになり、高級アイテムを持ち、周囲にそれを知らせて驚かれては「俺ってスゲー」のような悦楽に浸る。人と交流の少ない人なら、隣で戦っている人との違いを自分で見出して悦に入る。アイテム収集・レベル上げというのは、時間さえかければ誰でも可能なので、とにかく時間をかける。そしてリアルでは得られない快楽に酔い、依存症に陥る。

 ネットゲームはゲーム業界が最も注目している分野なだけに、恐らく今後も様々なネットゲームが出てくることだろう。人との交流が好きな人、とにかくゲームとして遊びたい人、いろんな人がプレイする。もう1つのリアルワールドだと言える。

 しかし、忘れてはならない。ゲーム上のリアルワールドとは、ゲーム外のリアルワールドを前提として成り立っているということを。現実世界なくしてネットゲームはあり得ない。そしてMMORPGでは「人情」というものが非常に表立ってくる。現実と仮想の狭間で微妙なバランスを保っているものがネットゲームなのだ。

創る心

 なぜ小説を書いていたんだろう。どうして物語を創れたんだろう。小説家を目指していたのはなんでだろう。疑問は消えることがない。

 物語を創れなくなった。そう実感し始めたのは、何も最近のことではない。別に書きたいとも思わない。だから書けるはずがない。当然なことだが、こうなったのはなんでだろうか。小説を毎日書いていた過去を思い出し、今と比べ、違いを見つけようとする。

 最後に小説を書いたのはいつだったか。遠い昔というわけではない。今年(平成15年)の正月に少々執筆した。戦渦王道の第3章だ。原稿用紙36枚分を書いたところで止まっている。あの頃はまだ創造力が残っていた。だが意欲は消えていた。

 長年趣味で執筆を続け、プロ作家になろうと志し、いつしか書く力を失った。十数年の時の中で、様々なことを思い考えてきた。

 「小説は楽しく書けているうちが華だ」

 そう感じたのは2年ほど前になる。文章の鍛錬にひたすら腐心し、文章の研究を自分なりに繰り返した。そのうち文章の欠点が気になり過ぎるようになり、他人の作品を読めなくなってきた。市販の小説でさえ、特定の作家の物しか受け付けられなくなった。そのころからだ。楽しく執筆することができなくなったのは。

 下手の横好きでも、単なる自己満足でもいい。世のアマチュア作家に言えることは、

 「いつまでも楽しく書いてほしい」

 確かに、鍛錬不足の文章を前面に押し出し、「プロを目指してます! ぜひ読んでください」という割には、短所を言うと異常に落ち込んだり否定したりして姿を消すアマチュアもいる。見ていてあまり気分良くはならない。だが、やはり楽しんだ者勝ちである。

 「小説家は恥かき屋」

 これは、とある編集者の言葉だ。大きく頷ける。本当に恥ずかしい。無心に書いていたころは感じなかったのだが、創作から離れてしまった今、自作小説を公開することは非常に恥ずかしい。現在公開している小説にパスワードをかけてしまおうかと思っているくらいだ。

 とはいえ、小説を書けるのは幸せなことである。今書いている人、これから書こうとしている人には大いに執筆してほしい。創作できるうちは、まだ夢がある。夢をいつまでも持ち続けて欲しい。人は夢を見ずして楽しく生きられない。せっかく人として生まれたのだから、人生楽しまなければ損である。

 創作は素晴らしい娯楽だ。感性を磨こうと必死にならなくてもいい。楽しんでほしい。ただそれを、今を生きる創作家達に伝えたい。

 脳というのは不可解なものだ。特に「記憶」。この細胞達に何をすることによって記憶をしているのか。場所や簡単な仕組み(神経細胞に毎分数万回アクセスするなど)はわかっても、もっと詳しいことがわからない。PCの記録媒体ならば、0か1の信号を磁気によって作りだしているしているとわかる。穴が空いているか空いていないかで0/1を判断する方法もある。しかし、脳はどうだろう。脳も0/1信号なのだろうか。記憶するためや記憶を検索するために電子が信号として流れているのは、医学的に解明されているようだ。となると、構造が人工的な記憶媒体と似ていても不思議はない。ただ、もしそうだとしたら、何十年もの記憶をし続ける脳というのは世界最大、まさしく驚異的な記録メディアだと言える。

 この分野について、研究は他の分野ほど進んでいない。だが今後発達し、「脳から外部へ記憶を取り出す」という真似ができる可能性はゼロではない。アルツハイマー対策などで脳の研究が進むのは喜ばしいことだが、他分野のクローン技術のように、発展とともに悪用の可能性が高まる研究は望ましくない。

 技術はひたすら発展させ、悪用は法で取り締まる――と考えても、やはり悪用する人はする。科学者の卵として、願わくば、必要のない興味本位な研究は控えて欲しい。そしてこれが科学発達の根本的理念である「なぜ」を阻害する行為であることは、充分に承知の上である。

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