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現代の利器を失えば

 こうして原稿を書くのも、今となってはワープロソフトでするのがほとんどである。筆者が初めてPCで原稿を打ったのは小学2年生のときだが、そのころと言えば1988年で、PCを持つ家庭は非常に少なかった。PCは日常必需品ではなかった。

 携帯電話を見てみよう。携帯電話が普及し始めたのは恐らく1997年以降だ。その前にはPHSやポケットベルが普及し、連絡手段として使われていた(PHSは今でも根強いユーザーがいる。筆者もその1人)。今や、携帯端末を持たずに待ち合わせなどほとんどない。小さな電話機は完全に日常に溶け込んでしまった。

 他にもいろいろとある。デジカメ、エアコン、ビデオ、DVDプレイヤー、カーナビ、炊飯器、洗濯機、オーブンレンジ、電気コンロ、まだまだある。皆、当たり前のように使っている品々だ

 こういう便利な科学世界に浸って、ふと恐ろしくなることがある。

 「今の文明を失ったとき、人は一体どうするのだろうか」

 結論は早々に出る。科学機器を失っても、人はどうにかして生きていくだろう。利器を失ったときに振り絞るのが、元祖の知恵である。大概の生き物は思考、学習ができるのだ。順応できない生物は世界から消えていくしかない。

 しかし。

 過去、突出した文明は次々と滅びていった。日本でも失われた知恵は多い。今の文明が滅びるのは一体いつだろうか。

登校拒否

 「不登校中学生は36人に1人」

 平成14年8月上旬、いくつかの新聞記事にその一文が載せられた。

 不登校には大きく分けて2種類の人間がいるだろう。1つは「学校へ行かずに外で遊ぶ」、もう1つは「学校へ行くのを拒み家に籠もる」だ。後者はいわゆる「登校拒否」である。筆者が強く関わってきたのも登校拒否である。ゆえに、ここでは登校拒否を対象とした話を書こうと思う。

 登校拒否の始まりはいろいろある。多いのは人間関係の不具合と、何かに対する不安。拒否を始めてからは外出を極度に拒み、家に籠もって無気力な生活をし出す。外に出ない彼(彼女)らに言わせると、出ない理由の中に「みんな自分を見てくるから」というのがあったりする。いい状態で登校拒否を脱した子なら、それを一言で片づけられるだろう。「自意識過剰なんだ」と。

 登校拒否者を抱えたとき必要なのは、その子の信頼を得ることである。だが勘違いしないで欲しい。信頼とは「この人に言えば何でも許してくれる」と思わせることではないのだ。単なる甘やかしは悪化促進効果しか得られないだろう。

 必要なことは他にもある。これは特に拒否者を抱えた親に言いたい。拒否者がいることを恥ずかしがったり隠したりしてはならない。頻繁に怒るのも以ての外だ。本当に悪いことをしたとき、一発がつんと強烈な怒りを見せてやればいい。普段落ち着いて理不尽なことをしない人が憤怒するのは、その子にとって大きな印象となるからだ。頻繁に怒っていては「また怒ってるよ。もう嫌だ、死にたい」と思わせることしかできないだろう。

 信頼を得られたら、今度は人前に連れ出してやるといい。カウンセリング室のような密室ではない。不特定多数の目が届くところへ連れて行くのだ。恐らく彼(彼女)らは周囲を警戒し、外に出ている間、ただの一度も微笑むことはないだろう。最初(長いときは年単位)はそれが当然である。だから連れて行くのも滅法疲れるのだが、疲れた素振りを見せてはならない。かといって、むやみに楽しがるのもいけない。家に帰ってから、外に出たときのその子の様子を巧く本人に伝えればいい。

 外に出られるようになってきたら、将来について語り場を設けると吉だ。拒否者は将来について「わからない」という返答をしやすい。ここでは巧みな話術が必要となるだろう。とにかく拒否者の目を現実に向けさせるのだ。だが、あまり押しすぎてはならない。拒否者の様子を見て、彼らの気力が尽きたり正常でなくなる前に話を中断することが肝要だ。一気に話を進めようとするのは悪化の原因になりうる。

 考えることに慣れてきたようなら、次は行動を促そう。結局現状を改善させるのは己の行動如何なのだと教えるのだ。これも今までと同様、様子を見ながらするのがいい。

 そして、あとは彼らの行動に大半を任せればよい。毎日話をして、叱ったり慰めたり笑わせたりしながら、リハビリを続けよう。彼らは集団社会に戻る機を自分で見つける必要がある。最後まで人の手を借り続けた者は、恐らく集団社会からまたすぐ舞い戻ってくるだろう。それでは意味がない。もしここで結局改善されずに終わるのなら、それまでだということだ。

 厳しいことを書いてきたが、以上は著者の経験を考察したものである。当然、全ての拒否者に相応しいとは思わない。参考程度にしていただければ幸いだ。

 最後に一言つけくわえておこう。

 「カウンセリングが必要なのは拒否者でなく、その親ではないのかな?」

男女の優劣

 とあるサイトで、男女の優劣が議論されていた。

 「男のほうが女より優秀である」

 「女にも男よりこんな優秀な点がある」

 水掛け論で収拾のつく気配がない。なぜ双方は自分の性別を優秀にしたがるのだろうか。

 男女平等論を唱える人は、「男女」という熟語にさえ目をつける。「男」が先で「女」が後なのは、男のほうが優秀だという差別表現だ!と主張する。事実おそらく、そういう差別的感情のもとにその熟語が作られた可能性はある。それは「帰国子女」の「子」が男性を指し、「女」が女性を指す点にも伺える。子供を指す言葉の「息子」と「娘」にも同様のことが考えられるだろう。女性の子は「子供」として認められなかった時代があるのではないだろうか。だが、だからと言って今さらそれらの言葉を改めていくことなどできない。使っていてしばしば違和感を持つ女性は、文章にその思いをしたためることで発散するといいだろう。

 議論に話を戻そう。筆者にはどうも、男女の「違い」を「差」と履き違える人が多いせいで優劣の議論が巻き起こっているように思える。上に立ちたいという欲望のなせる業か。同じ人間なのに、性別が違うというだけで「人間扱い」すらしてくれない人々が双方にいるのは、悲しい事実である(歴史上、女性が人間扱いされていないことはよくあったが)。

 よく考えてみよう。この世界は男性と女性の両方で成り立っているということを。どちらが欠けても駄目なのだということを。(しかしワニの中には、雌しかおらず、雌だけで子孫を残している種族がある。遺伝子は元が雌なのだから、それが可能でも不思議ではない)

 この議論の解決は、どちらかを上に考えようとする限りは無理であろう。双方が妥協しない限り終わることはない。互いが互いを認めれば済む話なのだ。ただ1つ言えることは、「女性だろうが男性だろうがヘタレはヘタレ。素晴らしい人は素晴らしい」。男性でも女性でも、それぞれ能力を発揮できる人はできるのだ。自分を磨こうとしない人のことは見ないほうがいい。

 男女を比較し優劣をつけたがること自体、愚行でしかない。相手を貶める暇があるなら自分をもっと磨け、と言いたい。

聞きやすい声

 電車の中でアナウンスが流れる。女性の声だ。ああ、この電車の運転手は女性なのか。実に聞き心地のいい、聞きやすい声だった。普段よく聞く男性声のアナウンスよりも断然いい。

 よく考えると、場内アナウンスなどは女性声が主流である。それは何も、そういう職種しか女性ができないから、ではないだろう。恐らく女性の声は、アナウンスに向いているのだ。理由としては、高波長のほうが低波長より認識しやすい点があげられる。波長の短い音声のほうが、波長の長い音声より波長差分早く情報が入るためだと考えられる。

 だがこれだけでは今ひとつ納得行かない人がいるかもしれない。ゆえに、理由を定量的に明確にするため、今後時間があるときに少し調べてみようと思う。

前にならう

 駅の改札でよく思うことがある。例えば、出る人用の改札口と入る人用の改札口が4つずつ並んでいるとしよう。ラッシュとまでは行かなくとも、そこそこ人のいる改札だ。だが、その中で1つだけ空き気味の改札口があったりする。その隣では列ができようとしている。

 「空いているほうへ行けばいいのに」

 第3者的に見ると、そう思うだろう。しかし、多くの人はなぜか“人のあとについて”出ようとするのである。これは無意識のうちに、出口(もしくは入口)を認識しているためではないだろうか。出ようとしている人の後に続けば、確実に出られる。そう無意識で判断し、行動に出ているように思う。だから、はたと我に返った人は、空いている改札口に途中から変わったりする。

 集団で生活する生き物は、何かしらに倣う。その習性がこんな日常の一場面に出ているのだと考えると、ちょっと面白い。皆さんも、時間があるときにでも改札前を観察してみてはいかがだろうか。

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