わたしは嫌煙家である。煙たいし臭いので煙草の煙が嫌いだ。ついでに我が物顔の自己中心的喫煙者も大嫌いである。
嫌煙家のサイトというのが、検索してみると結構出てくる。ただひたすらに愛煙家を罵倒するところもあれば、相互理解・分煙を求める落ち着いたところもある。全体的には後者のほうが多いようだ。
だから、ここで今さら愛煙嫌煙について論ずる必要もないのだろうが、敢えてネタとして取り上げようと思う。まあ、わたしも嫌煙家の1人としていろいろ考えているということだ。
愛煙家はいつから愛煙家になったのだろうか。まさか生まれたときから吸っているわけではあるまい。何かきっかけ(「消極的自殺」「なんとなく」「かっこいい」等)があったはずだ。わたしの周りでは、かわいい後輩達の多くが大学に入るや愛煙家になってしまい、非常に戸惑ったことがある。なんたって、高校卒業までは煙草を必要としていなかった子達が、今や煙草なしでは生きられないのだから。彼女たちに最早サバイバルはできないだろう。
愛煙家に多いのが、煙草に関して気配りをしない、またはしてるつもりの人である。子供にぶつからないようにしてると言うが、後ろから走ってくる子供にまで気をつけるだろうか。火元から飛び散る火の粉が近くの人に火傷をさせると、わかっているだろうか
愛煙家と話してみて思ったことがある。彼らは「愛煙家は嫌煙家より税金を多く納めてる。日本の税金の半分は愛煙家が出してる。どうだ、文句あるか?」という意見をもっぱら主張したがるということだ。彼らは、しけもくを食べたり、灰皿代わりの空き缶の水を飲んだりして「傷害」「致死」を受けた乳幼児が多い現実を、どう考えるのだろうか。道に投げ捨てて踏みつけた吸い殻はどうだろう。大地に還るとでも思っているのだろうか。体臭だけじゃ飽きたらず煙草の臭いを放って嫌煙者を苦しめる事実を、どう考えているのだろうか。
とにかく、考えの浅い愛煙家が多い。その思慮浅さが嫌煙家の感情を逆撫でするのである。思慮深い愛煙家ならば、嫌煙家は特に何も言わない。
煙草がこの世から消えることは、わたしの願いの1つでもあるが。まず無理だろう。規制法案でも作らない限り、消えはしない。
では、愛煙家と嫌煙家が巧くやっていくにはどうすればいいだろうか。場所的な分煙、互いへの思いやりが必要である。わたしが見たところ、どうやら嫌煙家のほうが「我慢」も「配慮」もしているようだ。となると、後は愛煙家の動き次第ということになる。
世の愛煙家達よ。さあ、どうするんだ。
恋人を持たぬ身でいると、オンラインでこう訊かれることがある(オフラインでは訊かれない)。
「寂しくないの?」
これに対するわたしの返答は、ずばり、
「別に」
である。
上の質問をした人は、きっと恋人がいないと寂しい人なのだろう。一人暮らしをできないタイプなのかもしれない。恐らく、友人や家族だけでは足りない甘えんぼさんなのだ。だが、別にそれが悪いとは言わない。寂しがることが悪いなどと酷いことは言わない。
とまあ、一人暮らし3年以上経つわたしだが、普段は平気でも気弱になるときがある。それは「病気にかかったとき」だ。
病気とは大変なもので、体力を低下させるだけじゃなく気力も低下させる。激しい頭痛と熱に悩まされているときなどは、ふと寂しさがよぎったりするものだ。どんなに苦しくても食事も飲み物も勝手に用意されない辺り、独り身の一人暮らしはつらい。
人が人を欲する心理というのは、一体どういう構造をしているのだろうか。これを知るためには、少し心理学をかじる必要がありそうである。しっかり学べた暁には、また同様のテーマで筆を執るつもりだ。
恋愛小説は難しい。試み始めて1年以上経つというのに、ただの1作もできていないというのはどういうことか。
恋愛物を書き始めるにおいて、わたしはまず、定義をすることにした。推理物だろうが時代物だろうが恋愛という要素を含む小説は多い。ということは、恋愛要素を含むだけでは恋愛小説にはならないのだ。では、そうすれば恋愛小説になるのか。「恋愛成就」を目的として、その過程を面白おかしく書けばいいのではないか。うん、きっとそうだ。
定義が決まったところで、わたしは執筆に入った。プロットから入ればいいものを小説から入ったものだから、さっぱり進みはしない。キャラクター設定を「超難関クラス」に設定してしまったという説もある。なにせ、恋愛経験がなく恋愛に夢のないわたしだ。恋愛を主題に据えたなら、平凡な恋愛など書いていられない。やはり一般的でない恋愛物、わたし系統の人間しか知らないような感覚を表現しようと考える。で、ドツボにはまっていく。
1年で3回書き直し、今もまだせいぜい原稿用紙十数枚。恋愛小説は難関だと、つくづく思った。
物書きには読み手が必須である。読んで消えてゆく読者もいいのだが、欲しいのは編集者的読者だ。つまり、わたしにいろいろアドバイスをくれる人のことである。
幸いながら、今は1人該当者がいる。ありがたい存在だ。で、その人からもらった感想の1つにこういうものがあった。
「固有名詞多すぎ」
確かに多いと思う。読めば読むほど多く感じる。昔はそうでもなかったのに、この多さよ。いつからこんなふうになってしまったのだろうか。
とにかく固有名詞を少なくして書くコツを、わたしはすっかり忘れてしまった。これではいかん。そう思って、書き方を試行錯誤しているときだ。ある日ふと気がついた。わたしの書く本文は、まるで英文のように「主語が明確」だ。つまり、英文に大いに影響されているのである。
主語を省略するのは日本語の特徴である。わたしはこの特徴を生かし切れていないということになる。では、生かすために重要なものは何だろうか。ここでまた閃いた。そう、「視点」である。
日本語の小説では視点の重要度が高い。今誰に視点があるかをはっきりさせることによって、主語の省略が可能となるのだ。視点がわかっていれば省略できる。これは今さらにして重大な発見だ。
というわけで、以後視点に頼った省略法を試そうと思う。
英語は美しい。否、英語だけに限らず、たった26個の文字で言葉を表現してしまう文化は美しいと思う。対し、日本語は世界で最も文字数が多いと言われている。実際にそうだろう。平仮名、片仮名がそれぞれ100字近くある上、漢字という膨大な文字数がある。全部を覚えきるのは日本人であっても難しい。外国人ともなれば言わずもがなだ。その雑多さのせいか、日本語はどうしても汚く感じてしまう。まるで散らかった部屋のようだ。
ここまでだと日本語が悪く英語がいいようにしか見えない。しかし実際は両方の言語とも一長一短。日本語を母国語としつつ英語も好きな身として、それぞれの長所短所を考えてみよう。
まずは英語だ。筆者は元々英語が苦手であまり好きではなかった。今も得意とは言えないが、好きである。どうして好きになったかというと、きっかけはオンラインゲームで他国の人達と会話したことだった。楽しかった。「こんな英語でも通じるのか」と何度思ったことだろうか。英語が世界共通語だと実感したのも、そのときだ。
英語の魅力は、なんと言ってもその整然具合である。一定の面積にある黒字分はほぼ同面積。日本の平仮名と漢字にあるような差がない。ゆえに見心地がよいのだ。また、他に文法がわかりやすいというのも挙げられる。英語の文法は日本語の100分の1らしい。これが学びやすさのゆえんかもしれない(日本人にとったら学びやすくないようだが)。しかし悩ましい部分もある。その1つは読み方だ。小説の造語などは、非常にわかりにくい。なんと発音すればいいのかはっきりとわからないときが多い。日本語と違ってルビを振る習慣がないようで、結局発音がわからぬまま終わったりする。
では日本語に移ろう。生まれてより約22年間、現代日本語については随分勉強した。小説を書くという趣味がなければ、考察するということもなかっただろう。
日本語の魅力は、多彩な表現力である。外来語をカタカナで表したり、漢字を組み合わせて意味明白な造語を作ったり。これは日本語と言うよりも漢字の賜物なのだが、たった1字「嬉」と書いただけで「嬉しいんだ」と表せてしまう。凄いことだ。
発音に関してもいいところがある。平仮名片仮名は1文字につき1つの読み方しかないことだ。例えば「canaid」と書いたら英語圏の人は「カーネイドー」や「キャネイド」など様々な読み方をする。だがカタカナやひらがなで書いたならば、確実に全ての人が同じ読み方をするのだ。だが先に言ったように、日本語は雑多である。文法も多いし、異国の人(特に西欧の人)には学びにくいことだろう。
一長一短。どの言語も、それぞれの国が長年かけて築き上げた文化である。自国の言葉に偏らず、その素晴らしい文化を多く学ぶのもいいのではないだろうか。