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異世界を書く人へ

 どんなジャンルの物語も作るのは難しい。だが、異世界小説はある意味、格別難しい。

 異世界の難しさは「作家が考え出した世界を、いかにして読者に無理なく理解させるか」にある。これは作者がしっかりと「世界」を構築してあることが前提で、世界を曖昧に終わらせている場合は論外だ。なぜこのような世界ができているのか、まで考えておかなければならない。はっきり言って、並大抵の努力では世界を作れないだろう。異世界はファンタジーであるが「何でもあり」ではないのだ。もっとも、コメディーにするのならば話は別だが……。

 異世界物は一見作りやすそうに見えるが、そうではない。そのことを異世界小説の書き手は知っておく必要があるだろう。異世界小説家にとって、世界が小説の見せ所なのだから。

SF作りも準備から

 SFとは何の略だろうか。答えは「Science Fiction(架空科学の話)」だ。実のところ筆者は、大学に入るまでSFを「Space Fantasy(空想宇宙)」だと勘違いしていた。恥ずかしいことだが事実だからしかたがない。

 さて、SF好きの一人としてSF作家に物申そう。SFを創る人達よ、科学を学んでくれ!

 なぜこのようなことを言うのかというと、世に出回っているSF(ここでは日本作家の物に限定する)が大抵において非科学的な箇所を含んでいるからである。子供に夢を与えるためなのかもしれないが、あまりにも続くその非科学的さについつい「作者は創っている分野の科学に対し無知なのではないか?」と疑ってしまう。

 科学者方面の読者に無知と思われないために、そして一般の読者に間違った知識を伝えないために、SF作家にはぜひとも科学を学んでもらいたい。数式も理解できるに越したことはないが、そこまでは望まない。概念でいいから、科学関係の書物を進んで読むくせをつけるのだ。なお、単なる付け焼き刃では妙なことになり得るので、概念を理解した暁には「よく考える」という行為をすることが肝要である。

 SF創りも準備から。道理の成り立たない科学小説を作らぬよう、作家陣には尽力していただきたい。

自分への一喝

 わたしには、常に心で唱える言葉がある。「甘えるな」「自分を信じろ」「全力を尽くせ」「大切な人を守れ」「何をせずとも時は過ぎる」以上の5つだ。

 人は独りでは生きていけない。これは物理的なことだけではなく、精神的なことにも充分言える。自分以外の生き物なしに、またはその記憶なしに生きることは難しい。わたしも、そのことはわかっているのだ。だが、わかっていても甘んじるわけにはいかない。誰かに頼ることを自分に許してしまったら、わたしはわたしでなくなる。どんな嵐が吹き荒れていようとも、わたしは自分の足で立っていなければならない。これがわたしの越えられぬ一線だから。

 しかし、時折疲れを感じることがある。気を張ることに疲労を感じるときがある。その疲労を癒せるのは……癒していいのは自分だけだ。人の手を借りることは、わたしの心が許さぬ。挫けたのならば、「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせて立ち上がる。「情けない」と自分を叱咤することもある。自分で自分を立たせることに、わたしは意義を感じているのだ。

 決して己を甘やかすな。他人を信じるのはいい。だが他人に頼るな。己が何のために生きるのか、己は何のために生きたいのか、よく考えよ。一つ一つに悔いを残さず過ごせ。

 今こうやって自分のことを記したのは、自分宛の手紙である。これから何年も時が経ち、血迷うときがあるかもしれない。その時のための手紙だ。一線を越えそうになったとき、わたしはこれを読み返すこととする。

理科離れの深部

 平成14年現在、筆者は中学理科・高校物理の第1種免許の取得課程を進んでいる。なぜ教職を選んだのかというと、将来実家へ帰らなければならないという身を考えた上で、実家から通える距離内にあり、なおかつ物理を活かせる職業というのがそれしかなかったからだ。決して教師が大好きだとか自分の天職だとは思っていない。つまり、生徒達にしてみれば大概迷惑な教師予備軍なのである。もっとも、筆者が中学生や高校生だった頃に、教師に向いていると思える教師が何人いたかというと、半数に達するか否かという程度だったような気がするが。

 最早どこでも耳にすることだが、教職課程を履修しているとさらに聞くことの多いものに「理科離れ」がある。今の子供達が理科を毛嫌いするようになってきたというのだ。

 理科離れの理由は様々に議論されている。中でも「暗記型教育法」が原因としてよく目立つ。

 ここでよく考えてみて欲しい。実は理科の中でも、暗記型で充分対処できる物があるのだ。生物がそのいい例である。化学も暗記を非常に必要とする。では、暗記だと全くやっていけない科目とは何だろうか。――そう、物理である。つまり理科離れの理科とは物理を示すのではないだろうか。

 筆者が高校生だった頃もすでに、物理の履修者数は非常に少なかった。生物や化学に比べ半数程度だったと記憶している。特に女子の履修者が少なくて、同じ学年でたった4人しかいなかった。

 なぜああも物理が敬遠されるのか。筆者は物理教師のせいばかりではないと考えている。生徒達の心意気・姿勢が往々にして物理に相応しくないのではないだろうか。定期考査の前日一夜漬け勉強がまかり通る学校で、その場しのぎばかりをしている生徒達が、結局は理論的思考を面倒くさく感じ物理から離れていくのではないだろうか。

 この悪い風習を学校に染みつかせているのは、定期考査の存在だと思われる。決まったときにまとめて訪れるテストラッシュ。暗記科目のほうが多い中に数学や物理といった応用系が入り、影を潜めている。一夜漬けで間に合う科目達に挟まれた数学や物理を、一体誰が理論的に理解しようとするだろうか。せいぜい、暗記が苦手で理解することを好む少数の生徒達くらいである。

 現状を打開するために必要なのは、教師が口を酸っぱくして「物理は理解する科目である」と教えることである。そして、(意欲のある生徒が)理解できるような流れで授業を進める必要がある。きっと中には、物理をパズルのように感じて楽しむ生徒が生まれるだろう。

 心底「理解」が苦手な生徒に無理矢理わからせようとする必要はない。だが、理解できる生徒から理解を失わせてしまうことは絶対避けなければならない。暗記に埋もれている理解を火の元に照らし出すことが、理科離れを食い止める第1歩になるのではないだろうか。

変わり者は普遍者?

 コラムにも書き方というものがある。しかし、それに準拠して書くと結構堅苦しい仕上がりになるようだ。というわけで、わたしはわたし流に書こうと思う。同じ表現を使わないようにしようとか云々考えず、自由に書いてみるのもいいんじゃないだろうか。と言っても、市場でこの考えは通用しそうにもないが。

 突然だが、わたしは自分自身を「普通ではない」と思っている。そしてチャットをしていると、そういう会話をする場面に至ることがある。数年前なら「そうなんだ?」という反応で事なきを得たのだが、今はなかなかどうして。「普通って考え自体が(以下略)」と言う哲学派が多いのだ。さらには「きみの普通って何?」と訊いてきたりする。こうなると、とても面倒くさい展開が後で待っていることが多い。

 わたしの場合、普通というのは、世の道徳教育で大勢が身につけた「基礎」や、大勢が経験取得したことのあるような状況・感情・考え方を持つことである。例を挙げれば「人を傷つけちゃいけない」「失恋すると悲しい」といった感じのものだ。この例からはずれる人はあまりいないのではないだろうか。それが「普通」である。また、変わり者も天涯唯一の存在ではない。

 わたしが自分を普通でないと言い切れるのには理由がある。

 「平民として両親を持って生まれてきたはいいけど、実は生まれる前から母の実家の跡取りに任命されており、半端な跡取り教育を受けながら一般人と混ざって高校を卒業し、母側の一部の親族から遠回しな嫌味を言われたり母から家のことで罵倒され、挙げ句の果てには自律神経を患い、それでもなお母を見捨てることができずに21歳の夏、養子縁組をして当主の任についた女性」

 さて。これを読んで「あんたの気持ちわかるよ」とか「わたしも似た状況だ」と言える人は何人いるだろうか。今のところ、わたしの周りには該当者が男性1人しかいない。それもまだ性別の差がある(家が絡むと性別の差は大きい)。これが、わたしが普通でない一番の所以である。もっとも、今の時代に普通でないだけで、数十年前(太平洋戦争前後とか)ならばこれは普通だ。

 「普通って何さ」

 という台詞を吐く人達よ。あなたのような人は10年前ならほとんどいない「変わり者」だが、今となっては「普遍人」である。ここ数年、急激に「個」を重要視し始めた日本において「普通」と言われるのは受け入れがたいことのようだが……それが蔓延しつつある今、その拒否感も普通ではないだろうか。

 普通とは永劫の普通ではない。時代と共に普通は変わる。普遍者のあなたも、10年後には変わり者かもしれない。

 さて、この意見に反感を抱く者は何人いるだろうか。

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