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ファンタジーを思う2

 わたしは甘かった――そう痛感したのは、某サイトのプロ志望オフ1st.に参加したときである。そのオフではベテランの編集者に様々な質問をすることが可能で、物書きを志す者は非常に有意義な時間を過ごすことができた。

 幻想小説を書いているつもりのわたしは、ベテラン編集者のK氏に「ファンタジーって何?」と訊ねられた。ずっと、ありとあらゆるものを呑み込む強大なジャンル、それが幻想だと信じていた。そのようなことを、K氏に答えた。だが、それから2つ3つの言葉を交わし、わたしは自分の中に「幻想小説」というジャンルが未確立であることを悟ったのだ。

 剣と魔法だけがファンタジー? そんなことは当然ない。ではファンタジーとは何なのか。わたしはひたすら考え続けた。答えは未だに出ていない。しかし、一応の定義づけをせねば、これから先幻想小説を書けなくなるような気がした。よって、ある言葉を編み出した。

 「我々が今いる世界では日常的に遭遇しない不思議な現象がある物語。または日常的に感じなかったり、今の世にはない、無形の力が働いている物語。それが幻想小説である」

 これが的確かどうかはわからない。幻想の定義に対する考察は、長く続きそうだ……。

悟り

 何年も様々なことを考え、感じ、知り……ようやく悟った。「文章について、他の作家に物を申してはいけない」ということを。今後は、自分の中で確立してきたものは自分の中、自分の文章のみに出す。自分が時間をかけて考察してきたことを人に知らせてやるのは、どうやらあまりよくないようである。

 沈黙を保ち、己の向上に尽力することとしよう。上へ上へと――どれくらい上がれたかは、読者が増えるか増えないかで確認できる。ただし、筆者は卑猥な描写を取り入れることによっての人寄せ、お情け集団の中に入っての人寄せはしない。今までも、これからも真っ向勝負を挑むであろう。

謎の語尾余韻

 日本にもいろんな方言がある。その中心になっているのが「標準語」と呼ばれており、東京での通用語がそれである。

 兵庫県にいたころは気にならなかったのだが、東京に来てからというもの、やたらと耳につく音がある。それは一体何かというと、若い男女ならば大抵が使っているという「語尾のばし」だ。「~だしー」「~でー」といった具合である。

 別に語尾のばしが悪いというのではない。筆者はあまり好きではないのだが、この語尾のばしが「東京圏の方言」なのだろうと思っている。だが、日常会話ならともかく、正式な発表の場などでこの方言というのはどうだろうか。少々問題に思うのは、筆者だけだろうか。

 なぜ問題と思うのか。第1に「頼りない気分になる」からだ。どう聞いてもはきはきとした喋り方でない。喋り方一つで性格を完全に決定する気はないが、経験上、頼りがいを感じられる人(全面においてしっかりしている人)は、関東圏でも他の女性とは語り口調が違う。やはり、口調にも性格の違いが出てくるのではないだろうか。

 語尾のばしを少々否定的に綴ったが、語尾のばしをする人が悪いわけではない。彼(女)らは、自分の周囲を見て言葉を覚えたに過ぎないのだ。周辺の人が語尾を伸ばしていたならば、それが当たり前の話法であり、体に染みついてしまうのは致し方ないことだ。

 ただ、成長してからも喋り方を使い分けることはできる。自分の喋り口調を少し変えることは、案外容易だ。一度自分の話し口調を見つめ、自分なりの改善点を見つけようとしてみるのもいいかもしれない。

考える葦になるために

 学問に触れたことのない人というのは、現代の日本にはまず、いないのではないだろうか。世界規模で考えても、恐らくほとんどいないだろう。人は言葉を使えてこそ人となる。吸収力の高い赤子達は、胎内にいるころから学習を始める。母親の喋っている言葉、聴いている音楽を、赤ん坊は母胎に守られながら聴いているのだ。

 口頭にしろ手振りにしろ、言語を扱えることは人として生きるための最低条件である。喜怒哀楽といった感情も、言葉を知ることによって具現化する。物事を考えることにも当然言葉が要る。言葉を洗練することは、人間を洗練することと同等ではないだろうか。

 さて。以上のように前振り、結局何を言いたいのかというと、

 「人でありたいのなら考えよ。考えたいのならば言葉を学べ」

 ということである。

 日本では、人の中でも理系・文系という面白い分類がなされている。一見、文系のほうが言葉に当然長けていて、理系は文章力が低く全てを小難しく表す、というように受け取れるかもしれない。もし、理系の人で「自分は理系だから作文が苦手」と考えていたり、文系の人を前にして「お前、文系なんだから作文得意だろ?」とか思ってしまう人がいるならば、こう言いたい。文系だから作文に長けているというのは絶対的でなく、理系だから作文が苦手でもしかたがない、という論理は成り立たない!

 文章というものは、練習次第で、ある程度まで巧く書けるようになる。少し言葉を知っては少し考え、その考えからまた少し言葉を知っては少し考える……この繰り返しで力がついてくるのだ。上達の早さに個人差はあるだろうが、考えている人には進歩が必ず見えてくる、と筆者は考えている。

 ここで1つ付け加えておきたい。言葉と絡めて考えることをひたすら推奨したが、「思うばかりで実行せず」は筆者の言いたい「考察すること」とは別物である。ここの「考える」ことには「行動」が常に伴っているのだ。書物を読みあさったり他人の意見を拝借したりという「行動」をなくして、考えることはあり得ない。思うことと考えることには、そういった点で違いがあることを知っていて欲しい。

 「人間は考える葦である」

 この文句を知らぬ人は、まずいないだろう。では、考える葦としてありたいのならば、どうすればいいのか。――そう、言語を学ぶことから始めればいい。言葉を知って考え、洗練し、次世代の思考レベルを低下させないようにする。これが、今の日本には必要なのではないだろうか。

生き続く古風

 ――なんという古い考え方。

 ――時代遅れ!

 ――そんなの、現代にまだあるんだね。

 歴史を持つ土地には、伝統が必ずと言っていいほど存在する。規模の小さな集まりでまとまっている土地であればあるほど、堅固な伝統がつきまとう。それは技術であったり、風習であったり、家柄であったり……伝統と一口に言っても、その内容は様々だ。

 筆者は物心つく前から物心つくまでを、東京に限りなく近い場所で暮らした。だが、そういう者でも、今や「家柄」という伝統に深く関わっている。筆者が伝統――血統の中心に立つことは、自我が芽生える前から望まれていた。

 養子縁組をしてまで家を継ぐことに、一体どれほどの意義があるのだろうか。長年、胸中で問い続けた。時には、自分の生まれを呪ったこともある。身の自由を望んでいたころに得た答えは、何者にも縛られない生活をするのは最早不可能、ということだった。自分を縛るものは、家や土地や血以上に、失いたくないものへの執念と仁義であるとわかったのだ。

 今は過ぎし苦悩の日々に問うた、古いものの存在意義。古き伝統を持つ日本においてまだ苦悩している者に、筆者の伝統への意見を伝えたいと思う。

 まず始めに言えることは、伝統なんてものは、継ぎたくなければ継がなければいいのである。いやむしろ継がないほうがいい。外界への未練を残したまま継いでも、見苦しいし、当人も一生苦しみに喘ぐことだろう。身の自由を得ることによって払う代償は多かれ少なかれあるだろうが、未練を拭い切れぬ者は代償を払って飛び立ったほうがいい。

 これは、現代であってこそできることである。昭和初期以前ならば、個人の意志など何の価値も持たなかった。大切なことは、ただ伝統を受け継ぐことであった。そう思うと、古きものにも新しい息吹がかかっているとわかる。

 せっかく現代に生きているのだ。嫌なものには抗おうではないか。抗った上で、様々なことを天秤にかけて、最後に覚悟ができたならば継げばいい。他人の所感に決して揺るがぬ強固な覚悟ができたときこそ、その人に後継の適性が生まれるだろう。半端な覚悟では、後々愚痴が出ることは目に見えている。

 そして、継ぐならば最善を尽くそう。自分の一生を伝統に投じるのだ。伝統を中心に据えた生活こそ本望である、と思うくらいでなければならない。もっとも、完璧な覚悟ができた人ならば、言わずともその感情が芽生えていることだろうが……。

 伝統とは、時代がそれを求めれば自ずと残っていく。だから伝統の後継者達に願う。己と人生をよく見極め、悔いのない一生を送って欲しい――と。

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