道で、駅のホームで、電車内で、周囲の女性を見ながらしばし、「なぜそんな服装をするのだろう?」と思う。スカートスーツにハイヒールのOL、タイトスカートの女性、圧底ブーツや圧底サンダルを履いた少女達。まあ、一般的な女性の服装だ。今の常識ではそうなっている。が、よく考えてみて欲しい。特に、「女性弱者」を訴える女性達にそう言いたい。女性が男性に比べて身体的に弱いのならば……そう知っているのならば、なぜ自ら不利な格好をするのだ。タイトスカートにロングスカート、ハイヒールに圧底靴、どれも走るのに邪魔だ。ろくに蹴ることもできない。ハイヒールは上手く使えば武器になるが、それ以外は何の役にも立たないではないか。突然誰かに襲われたらどうするつもりなんだ?
女性にはスカートだと、一体いつから決まっているのだろう。明治以降なのは確かだが。思えば明治以前でも、女性は走りにくい着物ばかり着ている。どうしてだろう? 男性にも着流しなどあるが、不思議なことである。「おしとやか」という言葉が女性にぴったり来るのも、段々不可解になってきた。
今では随分少なくなったが、女子の体操着がブルマというのはいかがなものか。どういう理由でブルマになったのか、ブルマを考えた輩に訊いてみたい。
ゲームキャラでも理解不能なものが多数ある。なぜ女性キャラにミニスカートが多いのだ。しかもそのスカートは、風通りをよくするためか動きやすくするためかは知らないが、スリット入りであることがしばしばだ。それに比べ、男性キャラのほとんどは長ズボンである。……いや。アニメに1シリーズだけ、登場キャラ全員がハイレグという凄まじいものがあったが……。男性もハイレグにしろとか、スリット入りのミニスカートにしろとは言わないから、女性キャラの露出度をもう少し低くはできないものか。
女性の制服をスカートのみに決めたりするのは、どう考えても差別である。男性群は、スカートで冬場を過ごす厳しさなど知らないであろうが、スカートはとにかく寒い。寒気の中スカート姿で自転車通学する者の、あの寒さ。脚の皮がぴしぴしと裂けていく痛さ。ズボンならばそんな苦痛を味わうこともないのに、制服がスカートであるというだけで味わうことを強制される。耐え難いことだ。
話がどんどん逸れていくので、本題に戻そう。
ここで言いたいことは、「女性の服装を見直そう」ということだ。不利の上に不利を重ねてどうする。元々不利な存在ならば、それ以上不利にならないよう最善を尽くすのが望ましい。
21世紀に期待をかけながら、著者は今日も長ズボンにトレッキングシューズである。
十数年間小説を書いていて、自問自答を繰り返すものが一つある。それは、心の台詞表記法だ。
心の声というのは、人によって、括弧でくくったり本文に混ぜたりと様々である。何人称で書くか――で使い分けている人もいるようだ。わたしは2年前まで括弧でくくっていたが、今は本文に混ぜている。どちらのほうが読み易いか、研究しているのだ。どっちもどっち、という意見が聞こえそうだが、書き手としては双方の長所短所を見極めるのも必要であるかと思う。
本文に混ぜる方法は、すらりと流して読めるという利点がある。その代わり、複数人の心中を書くことは難しい。3人称の視点を誰でとるかによっては、この方法は使えなくなることもあるだろう。括弧でくくる方法は、どこが心中の台詞なのかが一見してわかるという利点がある。書く上でも楽な手段だ。複数人の心の声を書くのも容易である。が、なんだか小説が雑然としてしまうのではないだろうか。
これに関しては、著者の好きな方をとるので構わない。わたしが一方を強く推すこともない。だからと言って、まだ研究が終わったわけではなく、思考の余地は充分残されていると思われる。
英文法の書物など学術書を読んでいて、しばしば思うことがある。さも自慢げに知識を書き綴っている人の大半において、日本語が下手だ。同じ意味の文章を何度も繰り返したり、同じ接続詞を頻繁に使用したり。強調するために文を繰り返すのならば構わないが、そのような意図は感じられない。まだ数式の羅列を見ているほうがマシだ、というような文章を見かけることもある。
専門書など、その道の専門家が書き綴っているのは当然である。だから、内容は正しく詳しく書かれている。が、いかにその人が知識的・技術的に凄かろうと、文章が下手だと読み手には理解不能だ。専門書を綴る人は、読者の存在を考えているのだろうか? 出版という形で文章を出している以上、何の権威であっても、読み手にわかりやすく配慮すべきではないか。酷い物であれば、簡単なことですら無闇に難しく書いていることもある。悲しい事実だ。
「他国語を学ぶ前に母国語を学べ」と言える対象は、現在、日本には非常に多いのではないかと思う。まともに敬語を喋れない若人も溢れつつあるようだ。「自分は英語が得意だから、国語なんていらないよ」という人は、日本語が上手い人を除いて、日本書を出さないで欲しい。日本語が下手で英語が上手いのならば、英語で書物を出せばいいであろう。
この題で文章を書くきっかけになった英文法の学術書(といえるほどの物ではないが)は、日本語の上手い人が書き直せば3分の2まで量を減らせる。あるいは、もっと減らせられるかもしれない。それほど無駄な文――無駄な繰り返しが多いのだ。英文法が好きな者でも、日本語の心得があれば、あれでは読むのが苦痛である。
どんな道の人であっても、本を書くのならば、読者への最高の配慮を試みるべきだろう。学術書を読みあさっている中、強くそう思った。
「将来、本はなくなる」
そんな台詞を見た覚えがある。間接的に聞いたこともある。そしてつい最近、他大の日語日文学科(だったと思う)の友人から、「本はなくならないよね?」と話を持ちかけられた。
上記の本とは電子書籍ではなく、アナログな本のことだ。インターネットでの電子書籍販売などが盛んになって来た今日、アナログ書籍の将来性が危ぶまれているようだが、本が消えることはまずないだろう。紙になる原材料が消失してしまえば話は別だが……。
アナログ書籍派の意見には「紙のほうが味がある」というものが多い。デジタル書籍派は、「これからの時代、全ての電子化が重要だ」や「紙はもう古い。あれに固執していては、時代遅れになるだけだ」という意見が旺盛だ。ぱっと見、デジタル書籍派のほうが優勢である。ここでは、双方の意見を踏まえて、客観的に将来の書籍を考えよう。
アナログとデジタルの違いは、時計などをみるとよくわかるだろうが、「全体視か部分視か」である。
アナログ時計の定番は、円盤と針と歯車を用いた物だ。一目しただけで、時間全体からの現在位置を確認できる。デジタル時計の定番は、数字のみを表示したもので、見てすぐにはっきりとした時刻がわかる。二、三分の時間制限を確かめるのならば、デジタル時計のほうが便利だ。が、一時間や二時間という単位で見るのならば、アナログ時計のほうが優れているだろう。ここが、全体視と部分視の長所だ。逆を言えば、それぞれの短所にもなる。最近はデジタルでも、円盤と針を画面に表示し、時間の全体視を行える物が出ているが、ここでの議論を簡単にするため考えないことにする。
では書籍について考えよう。本でも、時計の例は当てはまる。前もって言っておくが、衆知の通り、アナログ本は紙でできている。羊皮紙でも木簡でも構わないが、今それらの書を読んでいる人は、考古学者の他にそうそういないだろう。というわけで、ここでのアナログ書籍とは紙製の本を指す。
紙と紙の間に指を入れ、見たいページを――例えば17ページと103ページを交互に見る。アナログ書籍を読んだことがある者ならば、一度はこのようなことをしたことがあるのではないだろうか。こういう動作は、アナログ本にはお手の物である。
ではデジタル本ではどうだろうか。テキストビューアーなどでは、ページにしおりを挟めたりするので、間の飛んだページを見るのは容易である。ただ、しおりを挟むまでに手間(クリックし続けるなどで)がかかるだろう。これならば、むしろ画面分割を用いたほうが楽かもしれない。――が、よく考えると、販売される電子書籍がテキスト形式で配られることはない。PDF形式であることが大半だ。PDFはAcrobat Readerで見るのだが、しおりくらいは挟めるだろうが、分割は無理である。
アナログ本を寝転がりながら見るというのも、日常の行動であろう。この手軽さは、デジタルにはできまい――と最近まで思っていたのだが、ハンディサイズの電子機器(PDAなど)が出てきたため、手軽さでは双方引き分けといったところだろう。
書籍購入の容易さは、デジタルの勝利である。インターネットに繋げば、現実に歩いて本屋へ行かなくとも、欲しい本がすぐに買える。立ち読みばかりして本を買わなかった人達にとっては、全てをタダで読めないデジタル本は敵だろう。読みたければ買うしかない。これは本屋側からしてみれば、利益が増えて嬉しいことだろう。
負けそうになっているアナログ本だが、一気に巻き返して引き分けにできる点がある。それは、漫画というアナログ原稿が一般な物と、先ほどから言っている「全体視」が最も有効になる対象――学術書がある点だ。CGが流行っているとはいえ、漫画原稿は手書きが普通である。それをデジタル本にするとすれば、全てスキャンしなければならない。完成後の容量は大きいし、作るのに凄まじい手間がかかる。だから、漫画の大量デジタル化も可能性が低い。学術書においては、語学などはデジタルのほうがよかったりもするが、数学書など数式を用いる物は、利用者から見てアナログの圧勝であろう。長い証明文を小さい画面で眺めても、全体像が見えずに苦心して終わるだけだ。よっぽど大きい画面で証明全体を表示しない限り、デジタルに勝機はない。しかも、大きくしたら大きくしたで、携帯性がなくなる。
以上から、デジタル書籍の増加は否めないが、アナログ書籍が消えないこともわかるのではないだろうか。小説などが全てデジタル化することはあっても、漫画と数学書はアナログにあり続けるだろう。
人間誰しも、得意、不得意を感じることがあるだろう。自分も例外ではない。何の意味掛けもなく、ただ覚える――という行動が不得手でならない。脳の構造が、暗記に向いていないのだろうか。
大学で光学や電磁気学といった物理学を学ぶ過程で、ふと思ったことがある。人と心持ちは、思った以上に密接な関係にあるということだ。なぜ、そのようなことを思ったのか。きっかけは、実にひょんな事である。どうもよくわからない、と思っていた電磁気学や光学の参考書を最近、「苦手」という意識を完全に消して、純粋な気持ちで1から読んでみた。すると驚くことに、両者の数式、理屈がすいすいと頭に入ってきたのだ。どうやら、「なんとなく苦手」とか「なんだかわからない」という意識が理解の道を阻んでいたようである。人と意識は非常に関係深い――ということがわかる瞬間だった。
これにより、勉強への考え方がまた新たになった。先入観を持ってはならない。難しく考えてはならない。「純粋」に理解しようとすると、人の脳は予想以上の力を発揮してくれるだろう。そしてこのことは、勉強以外にも当てはまるのではないだろうか。