伊賀のとある山奥。そこに、伊賀者の隠れ里があった。いくつもの団体があり、それぞれに上忍、中忍、下忍がいる。上忍や中忍は、素質のありそうな捨て子、売られ子を他所で見つけては、里へ連れ帰った。忍びとして育てるためだ。しかし、その訓練の過酷さゆえか、九割の幼子が訓練途中で死んでいく。残った一割は下忍となり、それぞれの頭領のもとで働かされた。
優秀な忍びを育てるための訓練として、体力、技術を身につけるのはもちろん、方言を学ぶというものがあった。諜報活動に必要なのだ。活動する地域の言葉を知っているのといないのとでは、成功率が大幅に違ってくる。結果、忍び達は多種多様な言葉を喋ることができた。普段も、各々自分の好きな言語で喋っている。
そんな忍者達のいる屋敷の中――。
「こんな物が来ている」
上司の中忍、夜平が懐から一枚の紙を取り出した。それを部下の下忍二人によく見えるよう、丁度いい高さで腕を固定する。
「なんて書いてあるかわかるか? お前達の仕事ぶりを見て、上忍の方々からご命令が出た。最後の機会だ。これを好成績で遂行しなければ、お前達は伊賀から破門だ。理由はわかっているな?」
厳しい表情で言う夜平に、下忍二人は照れ笑いを浮かべた。
「笑い事じゃない!」
上司の一喝に、二人はただちに笑いを消して俯いた。夜平が小さく嘆息する。
「お前達をここまで鍛えた俺の身にもなってくれ。お前達が一度でも好成績をおさめてくれたら、それだけで肩身が多少広くなるんだ」
ほとんど哀願状態だ。
下忍二人は顔を上げ、自分達の上司をじっと見つめた。そして、互いの顔を見合わせ、再び上司のほうに向く。
「ンなこと言われてもなぁ……」
「僕らは、僕らなりに頑張ってるんだよね」
どうしようもない――と言った口調で、二人。
そんな教え子達を見て、夜平はまたも嘆息した。
「お前らがどうこう言おうと勝手だが、次が最後だ。利賀山城へ行き、『鬼術の書』を盗ってこい。ほら、利賀山城の図面だ。いいか? 『鬼術の書』だぞ。くれぐれも他の巻物を盗ってくるなよ。じゃあ、行ってこい。隼丸、松之助」
上司から図面を受け取り、二人――隼丸と松之助は困り顔を見合わせた。
利賀山城の城壁に、二つの人影が見える。
隼丸と松之助だ。
隼丸は、おもむろに背中の忍び刀を鞘ごと手に持つと、鞘についている細縄をもう一方の手にしっかりと巻き、刀を城壁に立てかけた。
少し後ろに下がり、勢いよく駆け出す。そしてそのまま忍び刀の鍔を踏み台にし、力を込めて飛び上がった。余裕で、城壁の上まで到達した。
「おーい。ええでぇー」
手を振り、相棒に合図する。それを見て、松之助も彼と同じように城壁の上まで跳んできた。
同僚もちゃんと上がってきたのを目で確認すると、隼丸は手に巻いてあった細縄を引っ張って、忍び刀を引き上げた。後は降りるだけだ。
再び刀を背にくくりつけ、今度は城壁の内側を見た。近くに人がいないか確かめる。
降りるのは簡単である。周りに人がいないのを知り、隼丸は松之助を連れてそこから飛び降りた。
本丸に向かい慎重に近寄る。幸い誰にも気づかれることなく、二人は本丸の内部に進入した。そこは、床と天井の間。いわゆる、ネズミの巣である。
暗く狭いところを這いながら、二人はとりあえず城主の寝室に向かった。重要な物ならば、大体そんなところにあるだろう――と推測したのだ。
「ん?」
膝下に微かな不安を感じ、隼丸は這うのをやめた。後方の松之助を見る。
「今、ミシッて言わんかった?」
「へ? みし?」
そう相棒が言った瞬間、隼丸の視界が一変した。落下感に全身を覆われる。
「わあっ。隼丸!」
松之助の叫び声がし、目の前に鉤縄の鉤が現れた――が、時すでに遅し。隼丸は、見事下の階へ墜落した。
うまく受け身を取ったせいか、あまり音はしない。
「大丈夫かぁー?」
天井の大穴から、松之助が顔を覗かせた。隼丸は軽く右手を振って答えた。
「紐くれ、紐ぉー。上、上がっからぁ」
「ほらよっ」
上から垂れてきた細縄を掴み、軽く引っ張ってみる。
「手ぇ放すなや」
松之助に念を押し、隼丸は上に上ろうとした――が、その時、背後で襖が開く音がした。
おそるおそる振り返る。露出度の高い女が目に入った。
「あらぁ。どんな奴が来たのかと思ったら、かわいい坊やじゃない」
女の口元に、妖艶な笑みが浮かぶ。隼丸は顔をしかめた。
女は、格好から推測するに、『くのいち』だ。長い黒髪を高い位置で一つに括り、左目の下には小さなほくろがある。見た目は結構美人なのだが、彼女の手には鎖鎌が握られていた。
「はやー、どうしたー?」
上から松之助の声がする。隼丸は上を向くと、小さく手招きをした。
数秒して、上から松之助が降りてきた。
「おぉっ」
くのいちの姿を見、松之助が感嘆とも驚嘆とも取れる声を漏らした。
「すっごい美人じゃん。なあ? はや」
弾んだ口調で、相棒が囁いてくる。
そんな相棒を横目で睨むと、隼丸はくのいちに視線を戻した。
「なんや。俺らに用か?」
凄みをきかせ、訊ねる。くのいちが楽しそうに笑った。
「威勢がいいわねぇ。ほんと……、遊びがいがありそう」
そう言うや否や、くのいちの右腕が動いた。おもりのついた鎖が飛んでくる。ほとんど反射神経で、隼丸はそれをよけた。
「あまいで。そんなんが当たるわけ――」
余裕の笑みを浮かべる彼の左腕に、よけたはずの鎖が巻きついた。隼丸は目を見張った。
今度は、くのいちのほうが得意気な表情になった。
「あたしの鎖から逃れられるのは、武寂(むさび)だけよ」
舌打ちし、隼丸は松之助の耳元に顔を近づけた。
「おい。俺が奴の気ぃ引きつけてっから、お前、回り込んでくのいちを攻撃せえや」
「……」
松之助の反応がない。隼丸は眉間にしわを寄せ、松之助の顔を覗き込んだ。
「だぁ、何しとんじゃ!」
頬を赤らめて呆然としている相棒に、隼丸は蹴りをくらわせた。
はっと、松之助が我に返る。
「え? なになに?」
状況を理解していないのか、不思議そうに周りを見回す。隼丸はため息を吐いた。諦め顔でくのいちに向き直る。くのいちの微笑は消えていなかった。ふざけてやれる相手ではなさそうだ。松之助はほっとくか――と心中で呟いた。
目つきを鋭くし、くのいちに向かって駆け出す。
「勝負や!」
鉄鎌を向けてくるくのいちに対し、隼丸は背中の忍び刀を抜刀した。
手を伸ばせば届きそうな距離になる。
「は、速いっ」
慌てて、くのいちが鎌を振る――が、それよりも早く、隼丸は身を低くした。
「はぁっ」
しゃがみつつ回し蹴りをし、くのいちの足下をすくう。小さく悲鳴を上げて、くのいちがその場に転倒した。
「覚悟!」
素早く立ち上がり、隼丸は忍び刀を振り上げた。
そして、一気に振り下ろそうとした時、
「ま、待てぇっ」
背後から松之助が飛びついてきた。
「斬っちゃだめだぁ」
「なに言ってんねん! 放せや!」
組みついてくる松之助を振り退け、隼丸は足元に視線を落とした。だが、もう、そこにくのいちの姿はなかった。
「だー! 逃げられたやんかぁ!」
忍び刀を持ったまま頭を掻きむしる隼丸。
そして背後の松之助を振り退け、半眼を向けた。
松之助の口元がひきつる。
「あ、はは……。いや、だってさ、あんな美人を斬るのは――」
忙しく手を振り、弁解をしてくる。
隼丸は、再びため息を吐いた。そして、左腕の鎖をほどく。
「ま、ええわ。まだ、そこにおるもんなっ」
最後の言葉を強く言い、隼丸は忍び刀でそばの襖を斬りつけた。
襖の上半分が綺麗に斬れ落ちる――とともに、くのいちの姿が現れた。
間髪を置かず、隼丸はくのいちに忍び刀を突きつけた。口の端をつり上げる。
「観念しいや。もう逃げられんで」
「――くっ」
くのいちが悔しそうな声を洩らす。
にやりと笑い、隼丸は懐から細縄を取り出した。
「安心せえ。殺しはせぇへん。松之助の奴がうるさいからな」
そう言い、さらに不敵な笑みを浮かべる。
くのいちの顔がひきつった。
二人は聞き耳を立てていた。襖の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「わっはっは。めんこいのぅ。どれ、もっと近う寄れ」
「いやですわぁ、お殿様」
「がっはっは」
襖から耳を離し、隼丸は拳を握りしめた。
「よっしゃ。ここの殿さん、たらしやで」
小声で言い、ガッツポーズを決める。
「行くで、松之助」
松之助のほうに振り向き、隼丸は愕然とした。松之助が、襖を開けようとしていたのだ。
――何してんねん!?
慌てて相棒を襖から引き離す。松之助が振り返った。
「な、なんだよ。行こうって言ったの、隼丸じゃないか」
「ちゃうっ。そーゆー意味とちゃう」
抗議してくる相棒を、隼丸は問答無用で引きずって行った。
安全そうな部屋まで行き、松之助を放す。
「ええか。よう聞けや」
「うん?」
小声で話し出す隼丸に、松之助が耳を傾けてきた。
「あの殿さんには弱点がある。言わずと知れた『たらし』や。そいつを利用して、巻物を手に入れる」
「――利用って?」
「お前が女装するんや」
「へえ、女装かぁ……って、ええ!?」
「しいっ。声がでかいっ」
驚く松之助の口を手で塞ぎ、隼丸は周りを見回した。
誰の足音も聞こえない。安堵のため息を吐き、相棒の口から手を離した。
「女装か、女装かぁ……いいかも」
ぶつぶつと呟く松之助。隼丸は笑みを浮かべた。
「ええやろ? お前、似合いそうやもんな。――じゃあ、早速着物を調達しようかぁ」
「おう」
顔を見合わせ、二人は不敵に笑った。
丁度その時、回廊のほうから足音が聞こえてきた。隼丸は急いで障子に近寄ると、薄くそれを開け、回廊を見た。上等な着物を着た女が、ひとりで歩いてくるのが見える。
カモや。
にやりと笑う。
不運な通行人が目の前に来たとき、隼丸は一気に障子を開け放った。彼女が振り向くよりも早く、腕を掴んで部屋に連れ込む。静かに障子を閉めると、彼は足元の女に目を向けた。彼女はいまだ状況を飲み込めない様子で、部屋中を見回している。
隼丸は、懐から睡眠薬の染み込んだ布を取り出した。屈んで、女に嗅がせる。声を上げる間もなく、彼女はすぐに眠りについた。
「堪忍な」
哀愁の眼差しを向け、隼丸は女性の着物に手をかけた。
「おおっ。めっちゃ似合うやん」
女装した松之助を見、隼丸は感嘆の声を洩らした。松之助もすっかり役になりきった様子で、身体をくねらせながら恥ずかしがる。
「よっしゃ。行ってこいっ」
「は~い」
城主の部屋へと向かう松之助の背を見送り、隼丸は畳を見た。脱ぎ捨てられた忍び装束のそばで、着物を脱がされた女が眠っている。
(風邪ひきそやな)
彼は周りを見回した。部屋の隅に積み上げられた座布団が目につく。
(ま、えっか)
ないよりはマシ、と彼は座布団を取りに行った。三、四枚手に取り、女の上にまんべんなく乗せる。
女への対処を終え、隼丸は相棒の忍び装束を拾い上げた。そのまま城主の部屋のそばまで行き、中の様子をうかがう。城主の笑い声と共に、複数の足音が聞こえてきた。
(や、やばい!)
隼丸が天井に張りつくのと、襖が開くのとは、ほぼ同時だった。
女が三人、不機嫌そうな顔で出てくる。最後に出てきた女が襖を閉めると、三人は一斉に文句を言い始めた。
「何なのじゃ、あのおなご」
「お屋形様も、お屋形様です。あんな女の申し出をお聞きなさって」
「あー、腹立つ。他へ行って、呑みなおしましょう」
彼女たちが立ち去るのを見届け、隼丸は畳の上に戻った。全身から汗がふきだしていた。天井に張りつく――などという、普通ではしない行為をしたからだ。
再度、襖に耳を当てる。
「ささ。殿様、もう一杯」
「うむうむ。そなたも呑むがよい」
にやり、と彼は笑った。
(上手くやってんやん。松之助のやつ)
まもなく、城主のすさまじいいびきが聞こえてきた。
(やった!)
嬉々として襖を開ける、隼丸。ブイサインをしている松之助と、その傍らで酔いつぶれている城主が目に映った。
「よっしゃ。探すで」
持っている忍び装束を持ち主に放り投げ、隼丸は巻物探しに取りかかった。
部屋中の入れ物という入れ物を調べる。が、巻物は一本も見つからない。ンなはずはないんやけど……。
顎に手を当て、周りを見回す。ふと、城主の肘置きが視界に引っかかった。
「まさか……な」
苦笑しつつも、とりあえずそれを手に取る。
軽く振る――と、中で硬い物の転がる音がした。目を見開き、隼丸は肘置きをなで回した。
「ここか」
端の部分に力を加える。すると、その部分が回って、本体と分かれた。
中は空間になっていた。手を突っ込み、中から円柱の物を取り出す。
巻物だ。
「やったぁ!」
着替え終わった松之助が、万歳をして喜ぶ。
「わっ。アホ、大声出すな」
慌てて相棒をいさめる、隼丸。その足元で、城主が呻いた。目がうっすらと開く。
「ん……。なんじゃ、貴様ら?」
まだ寝ぼけているようだ。忍び二人を、さして怪しむ様子はない。
巻物を背後に隠し、隼丸は愛想笑いを浮かべた。
「いや。何でもないんです。もっと寝ててや」
笑顔のまま、城主の鳩尾に蹴りをくらわせる。
「うっ」とだけ言い、白目を剥く城主。
隼丸は相棒のほうに向くと、巻物を投げ渡した。
「持っててくれ」
そう言うと、松之助はひとつ頷き、それを懐に入れた。
「んじゃ、帰ろか」
開けっ放しの襖に向き直り、隼丸は歩き出そう――として立ち止まった。
目の前に、一人の侍が立っていた。鋭く冷たい視線を、隼丸に向けてくる。
「何モンや?」
負けじと目つきを鋭くし、隼丸。侍の口が開いた。
「阿島武寂――。その巻物は持って行かさぬ」
松之助の唾を飲み込む音が聞こえた。
「巻物を置いて立ち去れ。そうすれば、斬りはせん」
「……あほぬかせ」
武寂の出してきた条件を、隼丸は鼻先で笑い飛ばした。侍の表情は変わらない。黙って、腰の太刀に手をかけた。
空気が張りつめた。双方、微動だにしない。
先に動いたのは、隼丸だった。
「先に逃げえ!」
相棒にそう言い、武寂へと向かっていく。
武寂が抜刀するのと同時に、右へ飛んで白刃を避ける。部屋中を跳び回りながら、隼丸は松之助のいたほうを見た。もう、そこに松之助の姿はない。
(上手く逃げたな)
ほくそ笑んだ彼だが、次の瞬間、その笑いは消え去った。
「曲者じゃー!」
誰かの叫び声と、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「あの阿呆。見つかったな」
相棒のほうに気を取られ、隼丸の集中力が弱まった。
刹那、左腕に鋭い痛みが走る。
(しまった――)
左腕の斬り口を右手で押さえ、隼丸は足を止めた。目の前に白刃が迫っている。
「っ!?」
紙一重のところで、その刃が止まった。
隼丸は武寂に目を向けた。互いの視線がぶつかり合う。
「なんで斬らんねん」
隼丸の問いに、武寂は答えない。静かに背を向け、先ほどまで叫び声の聞こえていたほうに向かって歩きだした。
隼丸は懐から棒手裏剣を取り出すと、侍に向かい投げた。金属のぶつかり合う音がし、手裏剣が畳に突き刺さる。刀を振った状態で、武寂が睨んできた。
隼丸は口端をつり上げた。
「勝負を放棄する気か? あんさん、侍とちゃうんか」
武寂が向き直った。淡々とした口調で喋る。
「お前は負けた。勝敗はすでに決している。――それに、巻物を持っていない者を殺す気はない」
「あまいな」
隼丸の一言に、武寂の眉が微妙に動いた。
「忍びをなめたらあかんで。あんさんは、殺せるときに俺を殺さんかった。その時点で、あんさんの負けや」
武寂が訝しげな表情になると共に、隼丸は腰にさげてある小袋から卵形の目つぶし玉を取り出した。即座に、武寂の顔めがけて投げつける。
「ぬっ」
武寂が目つぶし玉をよける――が、すでに隼丸は次の攻撃に移っていた。
導火線に火のついた煙玉を手に、勝利の笑みを浮かべる。
「じゃあな」
ひとこと言い、それを侍の足元に投げる。物凄い音を立て、煙玉が爆発した。
白い煙の中、隼丸は戸口まで行くと、中に向かって叫んだ。
「強いなぁ、あんさん。名前は覚えておくで!」
隼丸は、巧みに追っ手を振り切った。途中であの「くのいち」と遭遇したが、通り過ぎざま彼女の服を刀で切り刻んでやると、もう追ってこなかった。
手段は選んでられへん。
隼丸はそう考えていた。そして最後の城壁にたどり着いた。
城壁近くの木によじ登り、そこから城壁へと飛び移る。その勢いで城壁から飛び降りると、彼は後悔した。
「堀やぁぁ!」
激しい水音を立て、水中へと突入する。
(くそっ。忘れとったで)
悔しさに表情を歪め、水上に顔を出す。
地上に上がると、彼は駆け出そうとした――が、
「わぁー!」
後方の叫び声とそれに続く水音に、足を止めて振り返った。
「松之助か?!」
堀をのぞき込み、隼丸。
落ちたのは、確かに松之助であった。隼丸を見上げ、歓喜の声を上げる。
「ほら。掴まれ」
差し出した隼丸の手に、松之助がしっかりと掴まった。
「あれ? 隼丸、その手……」
隼丸の腕から流れる血を見、松之助の目が丸くなる。それに対し、隼丸は軽く笑ってみせた。
「気にすんな。ちょっと斬られただけや」
相棒を引き上げると、その手を掴んだまま、彼は走り出した。水を含んだ忍び装束が、おもりになって走りにくい。
忍者屋敷に着くと、二人は真っ先に上司――夜平のところへと向かった。
「巻物、盗ってきたでぇ!」
隼丸が笑顔で言い、松之助が懐から巻物を取り出す。二人とも、満面の笑みでそれを夜平に手渡した――が、その笑顔が続くのは、夜平がそれを見るまでだった。
「なんだ……これは」
震える声で、夜平が訊ねてくる。
「え? なにって、巻物やん」
「そうだよぉ」
答える下忍達の鼻先に、夜平が巻物を突きつけてきた。
「読めるのか? お前らに、これが」
上司の言葉を理解できず、隼丸はまじまじと巻物を見つめた。黒く汚れているだけで、紙面に文字らしきものは見当たらない。
隼丸の頬を、一筋の汗が流れた。
「消えてるな。濡れて……。おおかた、堀の水にでも落ちたんだろ」
(あ、当たっとる……)
少し見上げると、夜平の顔があった。その表情は厳しい。
「破門するのは一人だ」
冷静な口調で、夜平。
「もう俺には庇い切れん。庇えるとしても一人だ」
下忍二人は顔を見合わせた。そして再び、上司のほうを見る。
「訊ねる。巻物を見つけたのはどっちだ?」
夜平の問いに、隼丸は 「俺や」と答えた。
「巻物を濡らしたのは誰だ?」
二つ目の問いに、二人とも答えない。
夜平の目が、松之助に向いた。
「お前か。松之助」
こくり、と松之助が頷いた。
「じゃあ、決まりだな。松之助よ」
松之助の目が見開かれた。身体が、小刻みに震えている。慌てて、隼丸は口を開いた。
「ま、待ってくれ。堀になら俺も落ちた。それに、殿さんを酔い潰させたのは、こいつや。こいつの働きがなかったら、巻物とれらんかったで」
必死で説得しようとする、隼丸。すると、松之助も喋りだした。
「何言ってんだよ、はや! 失敗したのは僕のせいだ。破門は僕がされて当然なんだよ」
「お前は黙っとれ!」
怒鳴り、隼丸は相棒の鳩尾に拳を叩き込んだ。呻き声を上げ、松之助が気絶する。
隼丸は夜平を見上げた。
「ほら。仲間に暴力まで振るったで。こりゃ、俺を破門するしかないやろ」
無表情の夜平を、じっと見つめる。
静かなときが流れた。
夜平が小さく吐息した。
「ほんとにいいのか? 隼丸」
口元に笑みを浮かべ、隼丸は頷いた。意識のない相棒を、上司に預ける。
「そんじゃ、荷造りしてくるわ」
明るく言い、その場から立ち去ろうとして、彼は踏みとどまった。
夜平のほうに振り返る。
「そいつな、策略とかあかんけど、女装めっちゃ上手いねん。絶対使えるで」
その言葉に、夜平が初めて微笑んだ。
にっこりと、隼丸も笑い返す。久しぶりに見る上司の笑顔が、彼にとって最高の贈り物であった。
晴天の下、隼丸は山ふもとの道を歩いていた。もう忍び装束は着ていない。普通の旅装束だ。
だが、忍び装束は荷物としてしっかりと持っていた。背中の風呂敷で見えにくくなっているが、忍び刀も背負っている。
道の先に、一軒の茶屋が見えた。同時に、腹の虫が鳴く。
「――あ」
欲望のまま茶屋へと歩を進めていた隼丸だが、ふと足を止め、懐をさぐった。
「しまった。金わせた……」
また、腹の中から音が鳴る。
唾を飲み込み、茶屋を見た。「だんご」と書かれたのれんが、彼の食欲を倍増させる。
もう一度唾を飲み込み、腹に手を当てる。意を決し、隼丸は顔を上げた。
「腹が減っては戦はできぬ。まずは食ってからや!」
威勢よく言い、彼は再び歩き出した。